2012年2月21日火曜日

あなたは、熱帯雨林に連れて行く必要がありますか

マウイ・サブマリン&グラス-ボトム・ボート

アクティビティタイプ  :  ウォーター

前回潜水艦に乗ったのはいつのことでしょか?一度もない?もし潜水艦に乗ったことがある珍しい人の一人であるなら、私たちは、それには窓がなかったでしょと断言するでしょう。ここでは、4.5百万ドルの潜水艦に乗るチャンスが、150フィートの深さに潜水し、そして一時間、大洋の底を周遊するのです、そしてそこでは全てを見るのです、可能な限り、最高に見晴らしの利く所から。面白そうでしょ?そうなんです!

室温調整されたキャビンと巨大なのぞき窓により、水面下のあなたの旅は快適で興味深い物になります。何百もの魚、あらゆるサイズと色の珊瑚の先端部分を見るでしょう。時々、ウナギやエイ、そして時折サメを見るでしょう。海底にそって少しずつ動くにつれ、ますます見えてきます、色に色、形� �形が。冬の数ヶ月間は、鯨も視界に入って来ます。旅行ごとに様々ですが、どの潜水もエキサイティングで参考になり、また教育的です。

半-潜水、あるいはガラス・ボトム・ボートもまた入手可能です。あなたが大洋の水面上に留まっている点を除けば、水中体験という点では潜水艦でのそれに似ています。値段は安いですが、視覚的インパクトは同様に見ごたえがあります。それらは、20年前にラハイナの海岸で人々が使っていた古いガラス・ボトム・ボートとは全く似ても似つかない物です。

マウイ・スノーケリング

アクティビティタイプ  :  ウォーター

スノーケリングはマウイのナンバーワン・アクティビティです。

これまで一度もスノーケルをしたことがないですか?心配いりません。それは簡単ですので、初回で、短時間で学び習得できるでしょう。マウイ・スノーケリング旅行の乗組員の助けで学ぶのが最も簡単です。ですから、自分自身でやり始める前にその挑戦をしてみるといいでしょう。

人々がマウイでスノーケリングを愛している理由があります。マウイ周辺およびラナイやモロキニといった隣接諸島周辺の大洋の水は快適な程度に温かく、可視度が高いのです(しばしば100フィートを超えます)、また美しい珊瑚の形成が豊富でカラフルな熱帯魚もたくさんいます。

観賞は海岸線のフィート内から始まり、同じ領域で4分の一マイルほど外に 広がることもあります。あなたが珊瑚礁のファンタスティックな渦巻きや裂け目を滑るように進むにつれて、ウナギ、ヒトデ、エイ、ロブスター、さらに巨大なウルアさえ見るでしょう。そのパノラマは睡眠的です:揺らぐリムに海の腕白小僧、珊瑚断崖の間を永遠に動く砂底。

マウイ・ディナー・クルーズ

アクティビティタイプ  :  ウォーター

人々はディナー・クルーズが好きです。もしマウイで過ごしたひと時について今から数年後に振り返ってみるならば、この最後の夜がおそらく、あなたがもっとも深遠に記憶する物の一つになるでしょう。モロカイ、マウイ、ラナイそしてカホオラウェといった島々の間をゆっくりと漂いながら、あらゆる夕日の色を写し出している雲、大洋は太陽の最後の瞬間を映し出し、優しい波の音と海の柔らかなリズム、ワインのグラスを手に、あなたの横には連れが-ああ、人生は素晴らしい!

日本のトップは引く

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2012年2月20日月曜日

人は山の露を発明した

坂本龍馬 - Wikipedia

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日)- 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は、日本の近世末期に活動した武士。土佐藩出身。

諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。龍馬は通称[1]。 他に才谷 梅太郎(さいだに うめたろう)などの変名がある(手紙と変名の項を参照)。

土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。

司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公として描かれて以降、知名度を飛躍的に上げ、幕末の風雲児として国民的人気を得る[2]

[編集] 幼少年期

龍馬は天保6年(1835年)11月15日[3]、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士)坂本家に父・八平、母・幸の間の次男として生まれた。兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益の時に長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した[4]。 土佐藩の武士階級には上士と下士があり、両者の間には様々な待遇差別が存在し、下士は長い間様々な場面で抑圧されてきた。商家出身の坂本家は下士(郷士)だったが、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった[5][6]

龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見て[7](または父が駿馬の母が蛟龍の夢を見たとも[8])、それに因んで龍馬と名づけられ、幼い龍馬の背には一塊の怪毛があった[9]という伝説がある。

弘化3年(1846年)、12歳のときに母・幸が死去し、父・八平の後妻・伊与に養育された[10]。 幼年の龍馬は寝小便癖があったと言われることがあるがそのような記録はない[11]。気弱な少年であり、漢学の楠山塾に入学したものの、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまい[12]、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという[13]

龍馬の人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻・伊与の前夫の実家である下田屋(川島家)といわれている。龍馬は姉・乙女とともに浦戸湾を船で渡り、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている[14]

嘉永元年(1848年)に日根野弁治の道場に入門して小栗流を学び、非常に熱心に稽古し、5年の修業を経た嘉永6年(1853年)に「小栗流和兵法事目録」[15]を得た。

[編集] 江戸遊学

小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。出立に際して龍馬は父・八平から「修業中心得大意」[15]を授けられ、溝渕広之丞とともに土佐を出立した。4月頃に江戸に到着し、築地の中屋敷[16](または鍛冶橋の土佐藩上屋敷[7])に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現:東京都中央区)の門人となる。道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小千葉」または「桶町千葉」として知られ、周作の「玄武館」(大千葉)とは別である。道場には定吉の他に長男・重太郎と三人の娘(その内一人は龍馬の婚約者と言われるさな)がいた。ただし、汗血千里駒では坂本龍馬は千葉周作の門人としており[17]、千葉定吉の道場が嘉永6年の時点には桶町に道場がなかったことから2度目の遊学時に千葉定吉道場の門下になったのではと疑問視されている[18]

龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の、6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている [19][20]

同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した[21]。 そこでは砲術、漢学、蘭学などの学問が教授されていた。もっとも、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。

安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。在郷中に、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」[15]を取得し、日根野道場の師範代を務めた。また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽記略』を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる近藤長次郎・長岡謙吉らを紹介されている[22]。 また、この時期に徳弘孝蔵の元で砲術とオランダ語を学んでいる。

安政2年(1855年)12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年)2月に継承した[23]。 同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、大石弥太郎・龍馬と親戚で土佐勤王党を結成した武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。二度目の江戸遊学では桶町千葉道場とともに玄武館でも一時期修行している[24]

安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。同年8月、盗みを働き切腹沙汰となった山本琢磨を逃がす[25]。 安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。北辰一刀流免許皆伝と言われる事もあるが、発見、現存している目録は「北辰一刀流長刀兵法・目録」を与えられた物であり、一般にいう剣術では無く、正しくは薙刀兵法であり[26]、北辰一刀流としては一番低い「初目録」である。ただ千葉道場で塾頭を務めたことや、「免許皆伝を伝授された」という同世代の人物の証言もあるなど、優れた剣術家であった証拠は残っている [27]。 同年9月に土佐へ帰国した。

[編集] 土佐勤王党

土佐藩では幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主・山内豊信(容堂)が吉田東洋を参政に起用して意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣に一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。だが、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行し反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。一橋派の容堂も安政6年(1859年)2月に家督を養子・山内豊範に譲り隠居を余儀なくされた。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。

安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった[28]

同年7月、龍馬の朋友であり、親戚でもある武市半平太が、武者修行のために門人の岡田以蔵・久松喜代馬・島村外内らとともに土佐を出立した。龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまい」と笑った[29]が、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。一行はまず讃岐丸亀藩に入り、備前・美作・備中・備後・安芸・長州などを経て九州に入り、途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流している。

文久元年(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件(永福寺事件)が起り、下士と上士の間で対立が深まった。『維新土佐勤王史』にはこの事件について「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とある。なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。

同年4月、武市半平太は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持ち、土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした[30]。 これにより、同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰(めいえつ)を決めた[31]

武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した[32]。武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(主に老公山内容堂の意向)に影響を与えて、尊王攘夷の方向へ導くことにあった。

勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。

[編集] 脱藩

挙藩勤王を目指す武市は積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国・中国・九州などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。文久元年(1861年)10月、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」[15]を授かった後に、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出て文久2年(1862年)1月に長州萩を訪れて長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されている[33]

龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、この頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わり、土佐藩が二の足を踏んでいると感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出て来た。これは実際には島津久光が幕政改革を進めるための率兵上洛であったが、尊攘激派の志士の間では討幕の挙兵と勘違いされたものであった。これに参加するべく、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞等が脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意したものと思われる。脱藩とは藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、更に藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。武市は藩を挙げての行動を重 んじ、草莽の義挙には望みを託さず脱藩には賛同しなかった。

龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞や、那須信吾(後に吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した[34] 龍馬が脱藩を決意すると兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀を全て取り上げてしまった。この時、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある[35]

脱藩した龍馬と沢村は、まず吉村寅太郎のいる長州下関の豪商白石正一郎宅を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、4月23日に寺田屋事件が起こり薩摩藩尊攘派は粛清、伏見で義挙を起こそうという各地の尊皇攘夷派の計画も潰えた。吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。当面の目標をなくした龍馬は、一般的には沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は詳らかではない[36]

一方、土佐では吉田東洋が4月8日に暗殺され(勤王党の犯行とされる)、武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していた。龍馬は7月頃に大坂に潜伏している[36]。この時期に龍馬は望月清平と連絡を取り[37]、自らが吉田東洋暗殺の容疑者と見なされていることを知らされる。

[編集] 勝海舟と神戸海軍操練所

龍馬は文久2年(1862年)8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿した[38][39]。 この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流している[40][41]。 12月5日、龍馬は間崎哲馬・近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した[42][43]。 12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助・近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となった[44][45]

龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており[46]、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である[47]。 だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時には既に龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会の話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い[47][48][49]。 いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている[50]

海舟は山内容堂に取り成して、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認もした。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである[51]

2012年2月19日日曜日

植民地時代の鉄砲店があった場所

第6回 プロジェクト始動!(3)――主婦レポート!|石井光太&寺子屋ミシマ社|平日開店ミシマガジン

2009年12月12日に始動した「石井光太&寺子屋ミシマ社プロジェクト」。
この連載は『戦争文化』をテーマとするノンフィクションが、今までになかった試みによってできあがっていくまでのノンフィクション・レポートです。参加者からぞくぞく届くレポートに編集部もうなるばかり。「あの文化」も戦争から生まれていたとは・・・。
(まとめ:三島邦弘)

第6回 プロジェクト始動!(3)――主婦レポート!

力作レポートがめじろおしです! 今回は、お二人の主婦から届いたレポートです。

まずは途中参加ながら、興味深い調査をしてくださったS.A.さんから。
調査途中のものもありますが、おもしろい内容なので、このまま掲載します。

「○○は戦争から生まれた!」の○○に、こんなものが当てはまるとは!?
ぜんぜん知りませんでした。

≪S.A.さん(30代女性)のレポート≫

1. 文化・風習

●ねるとん(=集団見合い)
第2次世界大戦後、結婚適齢期の男性の激減、戦争で婚期を逸した男女の増加が社会問題となり、集団見合いが開催されるようになった。昭和22年11月6日、当時の結婚雑誌「希望」の発行元・希望社が読者のために多摩川畔で行った「花嫁・花婿の見合い大会」が初めての集団見合いといわれている(参加人数386名)。参加者は番号のついた札をつけ、気に入った相手の番号を書き留めて、後程事務所でその相手の学歴や財産を確認し、お見合いに持ち込むという手はずだったという。昭和23年4月8日の第二回目には4362名が参加するほどの人気だった。
尚、集団見合いを提言した日高孝次氏(海洋物理学者、1903年11月生-1984年8月没)は、昭和21年から昭和53年までの間、自宅を開放して若い男女の交流会(通称"日高パーティー")を行っているが、この交流会を「集団見合い」と認識するかについては見解が分かれている模様。

<参考資料>
・新人物往来社「戦後社会風俗史データファイル」
・47NEWS
・Wikipedia「日高孝次」

●遺影
明治中期には既に過当競争で廃業に追い込まれる写真屋もあった中、日露戦争で出征する兵士達が軍服姿の写真を「遺影」として家族に残していったことで、写真撮影の需要が急増した。
※もともと、日本には家族の肖像画や写真を飾る風習は無かったものが、日清・日露戦争のあたりから遺影を飾る文化が出来てきたようです。このあたりはこれから別の本を読んで確認します。

<参考資料>
・吉川弘文館「モノと子供の戦後史」天野正子・石谷二郎・木村涼子著

●西部劇
1945年11月17日、GHQにより「チャンバラ映画は軍国主義的である」との理由から上映禁止となる。その間、チャンバラに代わって上映されたのが白人が活躍する西部劇だった。


2. 保健衛生

●紙オムツ
第2次世界大戦末期のスウェーデンで開発。ナチスの経済封鎖によって綿花の輸入が止まり、綿布不足陥った為、政府指導の下自国の豊富な資源のパルプから紙オムツが考案された。

<参考資料>
・吉川弘文館「モノと子供の戦後史」天野正子・石谷二郎・木村涼子著

●使い捨て生理用ナプキン
第1次世界大戦において、包帯が血の処理に適していることに従軍看護婦が気づき、そのアイデアを1921年に米国Kimberly-Clark社が「Kotex」という名前で商品化したのが使い捨てナプキンの第1号。日本では、第2次世界大戦前までは脱脂綿や布を何度も洗って使っていたが、戦争により綿が不足した為、紙綿が代用として使われるようになった。日本製の使い捨てナプキンが登場するのは1961年。

<参考資料>
・社団法人日本衛生材料工業連合会「ナプキンについて」


3. 日用品

飛行機には何をもたらすことができます

ねずきちの ひとりごと 都市鉱山の回収は日本に巨富をもたらす

昨今、ニュース等で耳にする言葉ですが、金や銀、プラチナ、アンチモン、タンタル、インジウム等々、世界的な埋蔵量が少ない希少金属の事です。

パソコンや携帯電話、最近ではハイブリッド自動車のバッテリーにも使われ、ハイテク工業生産を得意とする日本には無くてはならない貴重な資源です。

ところが、これらのレアメタルは海外から輸入される場合が多く、日本国内では産出されません。
と言うことは、日本のハイテク産業は、いくら優秀だとしても肝心のレアメタルの輸入がストップしてしまうと、脆くも崩れ去ってしまうのでしょうか?

現に支那(いわゆる中国)は、レアメタル供給を外交交渉のカードとして使い始めています。
「レアメタルを安定供給して欲しければ、我々の言うことを聞け!」と。

日本嫌いなマスコミなら、
「あぁ、やはりレアメタルを手に入れるためには、産出国の機嫌を損ねないようにしないとね。」で終わってしまうかもしれません。

本当にそうするしかないのでしょうか?

実は、そんな必要は一切ないのです!
本当は日本という国は、たいへん有望なレアメタル鉱山を持っています。
それは、「都市鉱山」と呼ばれるものです。

「都市鉱山」とは?
1980年代に東北大学の南條道夫教授らが提唱したもので、大量に廃棄される使用済み家電製品等から貴重な資源を回収し、再利用しようとする発想です。
英訳では、「urban mine(アーバンマイン)」と言います。

では、日本の都市鉱山にはどれだけの埋蔵量があるのか?
それを表す数値があります。

日本の都市鉱山の資源埋蔵量が世界の埋蔵量に占める割合の数値なのですが、
一部を紹介しますと、

ここで、ブレイディ·アンダーソンはここまでです

P.S.Victory21 : カル・リプケンJr.が西京極にやってきた!

13日は朝早くから、西京極に行ってきました。

11日から、女子野球ナンバー1を決める、
「第1回 女子ジャパンカップ」という大会があったのですが、

なんと、あの鉄人 カル・リプケンJr.氏が始球式をするというので、

「何とかサインを貰いたい!!」

…と期待と希望を抱き、行ってしまいました。
こんなチャンス滅多にないですからね。

なんでも、在日米国大使館による震災復興支援などのため、
8日から来日していたそうで、この日は京都に来ていました。
(なぜ、京都だったのか…は不明ですが。)

球場入りの前にコンタクトを取ろうと、8時過ぎに西京極入りしたのですが、
その時、リプケンはもう既に球場入りした後でした。
どうやら早朝からリプケン主催の野球教室が行われていたようです。

なぜガソリン価格は、ニューヨークの非常に高いです。

2012年の日本は緩やかな回復基調、原油価格高止まりへ ― 海外市場はNY・インドネシアに注目 - みんなの心にも投資 … ソーシャルインベスター(社会投資家)への道

新年おめでとうございます。

昨年も更に多くの方々に当ウェブログを見て頂きまして
有り難うございます。

当ウェブログは早くから日本の原子力政策を批判しており、
原発事故の後は多くの方のツイッターで取り上げて頂きました。

9月以降は推薦を頂いてBLOGOSに掲載されることになり、
新たに多くの方々に見て頂けるようになりました。

なかなか内容を正しく理解してもらうのは難しいのですが
粘り強く訴えていきたいと考えております。

日本経済については税制・少子化・エネルギー・雇用において
事実を直視せずドグマや感情論によって歪んだ政策と世論が懸念されます。

経済成長率を上げなければ社会保障制度を維持できません。
欧米ともに低成長が予想されるなかで
企業収益だけでなく広く国民全体が恩恵を受ける
力強い日本経済へ向けて賢い改革断行が必要です。

企業だけに依存せず、トリックルダウンの妄想も打破し
効率的で公正な経済社会に至る道は探さなければ見えません。