人は山の露を発明した
坂本龍馬 - Wikipedia
坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日)- 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は、日本の近世末期に活動した武士。土佐藩出身。
諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。龍馬は通称[1]。 他に才谷 梅太郎(さいだに うめたろう)などの変名がある(手紙と変名の項を参照)。
土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。
司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公として描かれて以降、知名度を飛躍的に上げ、幕末の風雲児として国民的人気を得る[2]。
[編集] 幼少年期
龍馬は天保6年(1835年)11月15日[3]、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士)坂本家に父・八平、母・幸の間の次男として生まれた。兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益の時に長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した[4]。 土佐藩の武士階級には上士と下士があり、両者の間には様々な待遇差別が存在し、下士は長い間様々な場面で抑圧されてきた。商家出身の坂本家は下士(郷士)だったが、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった[5][6]。
龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見て[7](または父が駿馬の母が蛟龍の夢を見たとも[8])、それに因んで龍馬と名づけられ、幼い龍馬の背には一塊の怪毛があった[9]という伝説がある。
弘化3年(1846年)、12歳のときに母・幸が死去し、父・八平の後妻・伊与に養育された[10]。 幼年の龍馬は寝小便癖があったと言われることがあるがそのような記録はない[11]。気弱な少年であり、漢学の楠山塾に入学したものの、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまい[12]、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという[13]。
龍馬の人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻・伊与の前夫の実家である下田屋(川島家)といわれている。龍馬は姉・乙女とともに浦戸湾を船で渡り、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている[14]。
嘉永元年(1848年)に日根野弁治の道場に入門して小栗流を学び、非常に熱心に稽古し、5年の修業を経た嘉永6年(1853年)に「小栗流和兵法事目録」[15]を得た。
[編集] 江戸遊学
小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。出立に際して龍馬は父・八平から「修業中心得大意」[15]を授けられ、溝渕広之丞とともに土佐を出立した。4月頃に江戸に到着し、築地の中屋敷[16](または鍛冶橋の土佐藩上屋敷[7])に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現:東京都中央区)の門人となる。道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小千葉」または「桶町千葉」として知られ、周作の「玄武館」(大千葉)とは別である。道場には定吉の他に長男・重太郎と三人の娘(その内一人は龍馬の婚約者と言われるさな)がいた。ただし、汗血千里駒では坂本龍馬は千葉周作の門人としており[17]、千葉定吉の道場が嘉永6年の時点には桶町に道場がなかったことから2度目の遊学時に千葉定吉道場の門下になったのではと疑問視されている[18]。
龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の、6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている [19][20]。
同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した[21]。 そこでは砲術、漢学、蘭学などの学問が教授されていた。もっとも、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。
安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。在郷中に、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」[15]を取得し、日根野道場の師範代を務めた。また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽記略』を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる近藤長次郎・長岡謙吉らを紹介されている[22]。 また、この時期に徳弘孝蔵の元で砲術とオランダ語を学んでいる。
安政2年(1855年)12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年)2月に継承した[23]。 同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、大石弥太郎・龍馬と親戚で土佐勤王党を結成した武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。二度目の江戸遊学では桶町千葉道場とともに玄武館でも一時期修行している[24]。
安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。同年8月、盗みを働き切腹沙汰となった山本琢磨を逃がす[25]。 安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。北辰一刀流免許皆伝と言われる事もあるが、発見、現存している目録は「北辰一刀流長刀兵法・目録」を与えられた物であり、一般にいう剣術では無く、正しくは薙刀兵法であり[26]、北辰一刀流としては一番低い「初目録」である。ただ千葉道場で塾頭を務めたことや、「免許皆伝を伝授された」という同世代の人物の証言もあるなど、優れた剣術家であった証拠は残っている [27]。 同年9月に土佐へ帰国した。
[編集] 土佐勤王党
土佐藩では幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主・山内豊信(容堂)が吉田東洋を参政に起用して意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣に一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。だが、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行し反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。一橋派の容堂も安政6年(1859年)2月に家督を養子・山内豊範に譲り隠居を余儀なくされた。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。
安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった[28]。
同年7月、龍馬の朋友であり、親戚でもある武市半平太が、武者修行のために門人の岡田以蔵・久松喜代馬・島村外内らとともに土佐を出立した。龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまい」と笑った[29]が、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。一行はまず讃岐丸亀藩に入り、備前・美作・備中・備後・安芸・長州などを経て九州に入り、途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流している。
文久元年(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件(永福寺事件)が起り、下士と上士の間で対立が深まった。『維新土佐勤王史』にはこの事件について「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とある。なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。
同年4月、武市半平太は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持ち、土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした[30]。 これにより、同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰(めいえつ)を決めた[31]。
武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した[32]。武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(主に老公山内容堂の意向)に影響を与えて、尊王攘夷の方向へ導くことにあった。
勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。
[編集] 脱藩
挙藩勤王を目指す武市は積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国・中国・九州などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。文久元年(1861年)10月、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」[15]を授かった後に、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出て文久2年(1862年)1月に長州萩を訪れて長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されている[33]。
龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、この頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わり、土佐藩が二の足を踏んでいると感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出て来た。これは実際には島津久光が幕政改革を進めるための率兵上洛であったが、尊攘激派の志士の間では討幕の挙兵と勘違いされたものであった。これに参加するべく、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞等が脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意したものと思われる。脱藩とは藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、更に藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。武市は藩を挙げての行動を重 んじ、草莽の義挙には望みを託さず脱藩には賛同しなかった。
龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞や、那須信吾(後に吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した[34] 龍馬が脱藩を決意すると兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀を全て取り上げてしまった。この時、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある[35]。
脱藩した龍馬と沢村は、まず吉村寅太郎のいる長州下関の豪商白石正一郎宅を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、4月23日に寺田屋事件が起こり薩摩藩尊攘派は粛清、伏見で義挙を起こそうという各地の尊皇攘夷派の計画も潰えた。吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。当面の目標をなくした龍馬は、一般的には沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は詳らかではない[36]。
一方、土佐では吉田東洋が4月8日に暗殺され(勤王党の犯行とされる)、武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していた。龍馬は7月頃に大坂に潜伏している[36]。この時期に龍馬は望月清平と連絡を取り[37]、自らが吉田東洋暗殺の容疑者と見なされていることを知らされる。
[編集] 勝海舟と神戸海軍操練所
龍馬は文久2年(1862年)8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿した[38][39]。 この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流している[40][41]。 12月5日、龍馬は間崎哲馬・近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した[42][43]。 12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助・近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となった[44][45]。
龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており[46]、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である[47]。 だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時には既に龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会の話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い[47][48][49]。 いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている[50]。
海舟は山内容堂に取り成して、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認もした。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである[51]。
どんな金持ちが行う幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦の後、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春獄から千両を借入れした[52]。 5月17日付の姉乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」 [53]と近況を知らせている。
龍馬が神戸海軍操練所設立のために方々を奔走していた最中の同年4月、土佐藩の情勢が変わり、下士階層の武市半平太[54]が藩論を主導していることに不満を持っていた山内容堂は再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、土佐勤王党の粛清に乗り出した。6月に勤王党の間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太が切腹させられた。平井の妹加尾は龍馬の恋人とされる女性で、龍馬は6月29日付の手紙で姉乙女へ「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」[55]と書き送っている。また、同じ手紙で攘夷を決行し米仏軍艦と交戦して苦杯を喫した長州藩の情勢と(下関戦争)その際、幕府が姦吏の異人と内通し外国艦船の修理をしていることについて強い危機感を抱き「右申所の姦吏を一事に軍いたし打ち殺、日本を今一度洗濯いたし申し候」[56]と述べている。
8月18日に倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく薩摩藩と会津藩が手を組み「八月十八日の政変」が起きた。これにより京都の政情は一変し、佐幕派が再び実権を握った。8月に天誅組が大和国で挙兵したが、翌9月に壊滅して吉村虎太郎・那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしている(天誅組の変)。土佐では9月に武市半平太が投獄され、土佐勤王党は壊滅状態に陥っていた(武市は1年半の入牢後の慶応元年閏5月に切腹となっている)。
10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられた[57][58]、翌元治元年(1864年)2月に前年に申請した帰国延期申請が拒否されると、龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるために再び藩に拘束されることを好まず、藩命を無視して帰国を拒絶し再度の脱藩をする。2月9日、海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行した。熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に「海軍問答」を贈り、海軍建設に関する諸提案をした[59]。
5月、龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(お龍)と出会い、後に彼女を懇意にしていた寺田屋の女将・お登勢に預けている。5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足した[60][61]。 6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数十人(或いは200人程)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中・水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べている[62]。
だが、この時点では龍馬と海舟は知らなかったが[63]、6月5日に池田屋事件が起きており京都の情勢は大きく動いていた。池田屋事件で肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と望月亀弥太もいた。北添は龍馬が開拓を構想していた蝦夷地を周遊した経験のある人物で、望月は神戸海軍塾の塾生であった。
八月十八日の政変と池田屋事件の後、長州藩は薩摩・会津勢力によって一掃された。7月19日に京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約3,000が御所を目指して進軍したが、一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)。それから少し後の8月5日、長州は英米仏蘭四カ国艦隊による下関砲撃を受けて大打撃を蒙った(下関戦争)。禁門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に長州征伐を発令した。二度の敗戦により長州藩には抗する戦力はなく、11月に責任者の三家老が切腹して降伏恭順した(長州征討)。
お龍の後年の回想によると、これらの動乱の最中の8月1日に龍馬はお龍と内祝言を挙げている[64]。 8月中旬頃[65]に龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、龍馬は海舟に対して西郷の印象を「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と評している[66][67]。
望月の件に続き、塾生の安岡金馬が禁門の変で長州軍に参加していたことが幕府から問題視され、さらに海舟が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり[68]、10月22日に海舟は江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまった。これに至って、神戸海軍操練所廃止は避けえなくなり、龍馬ら塾生の後事を心配した海舟は江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老・小松帯刀に彼らを託して、薩摩藩の庇護を依頼した。慶応元年(1865年)3月18日に神戸海軍操練所は廃止になった。
[編集] 亀山社中
龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており[69]、慶応元年(1865年)5月頃に龍馬らに出資した。「亀山社中」[70]。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり[71][72]、当時商人が参集していた長崎の小曽根英四郎家を根拠地として、下関の伊藤助太夫家そして京都の酢屋に事務所を設置した。
長州藩では前年の元治2年(1864年)12月に高杉晋作が挙兵して、恭順派政権を倒して再び尊攘派が政権を掌握していた(功山寺挙兵)。亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることの外に、当時、水火の如き関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、後の薩長同盟成立(後述)に貢献することになる。
幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、一部の藩士は共に天を戴かずと心中に誓い、例えば「薩賊會奸」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。この様な雰囲気の元でも、土佐脱藩志士中岡慎太郎とその同志土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕を望んでいた。龍馬は大村藩の志士・渡邊昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。渡邊は元練兵館塾頭で桂小五郎や高杉晋作らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせた。慶応元年(1865年)5月、先ず土方と龍馬が協同して桂を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服さ� �、同時に中岡は薩摩に赴き西郷に会談を応じるよう説いた。同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、「茫然と」した中岡が漁船に乗って現れただけであった[73]。 西郷は下関へ向かっていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止するために急ぎ京都へ向かってしまっていた。桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。
倒幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるので、両藩とも自然これに首肯した。
これが亀山社中の初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買い付け斡旋に成功した[74]。 これは同時に薩長和解の最初の契機となった。また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった[75]。
9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず」という重要な大久保一蔵の書簡を、長州藩重役広沢真臣に届けている。[76]。
[編集] 薩長同盟
詳細は「薩長同盟」および「寺田屋事件」を参照
慶応2年(1866年)1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった[77]。 龍馬が1月20日に下関から[78]京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問い質したところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた[79]。 そこで、その夜に龍馬は西郷を説き伏せて、これにより薩長両藩は1月22日[80]に薩摩側が西郷と小松、長州は桂が代表となり、龍馬が立会人となって列席して、後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。盟約成立後も桂の薩摩に対する不信感は根強く、帰国途中で龍馬に盟約履行の裏書きを要求している。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信を得ていたかがわかる[81]。
盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。だがこの時、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた[82]。 明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷(あわせ)一枚のまま二階に駆け上がり二人に知らせた。すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付の手紙で兄権平に報告している[83]。
龍馬が不在の長崎の亀山社中では1月14日にユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見し自刃させられる事件が起きていた。事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」[84]と書き残しているが、後年のお龍の回顧では「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いたという[85]。
寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、特に左手人差し指が曲がらなくなり、以後、それが理由で写真撮影などでは左手を隠していることが多いのではないかと指摘する研究者もいる[菊池明]。[86]。 西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は2月29日に薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立した。3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留した。二人は温泉療養の傍ら霧島山・日当山温泉・塩浸温泉・鹿児島などを巡った。温泉で休養を取ると共に左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている[87]。
5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだ「ユニオン号」が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返した。
6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。6月16日に「ユニオン号」に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した[88][89]。 龍馬はこの戦いについて戦況図付きの長文の手紙を兄・権平に書き送っている[83]。
長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵した(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)。
[編集] 海援隊
先に帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。慶応2年(1866年)7月28日付の三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている[90]。 この為、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。
将軍・家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承していた。8月末頃[91]、龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春獄に伝えるよう頼んだ[92]。 龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録だが、政権奉還論自体は龍馬の創意ではなく、幕臣・大久保一翁がかねてから論じていたことで[93]、龍馬と下山の会見以前の8月14日には春獄当人が慶喜に提案して拒否されていた[94]。
尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩だが、この頃には時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を盛んに行っていた。航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は11月頃から溝渕広之丞を介して龍馬と接触を取り、翌慶応3年(1867年)1月13日に龍馬と後藤が会談した(清風亭会談)。結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろに亀山社中は「海援隊」と改称した。
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や他藩の脱藩者中の海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸・交易・開拓・投機等の商業活動を行い土佐藩を助けることとされ、隊士は土佐藩士(千屋寅之助・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎)および他藩出身者(陸奥陽之助(紀州藩)・白峰駿馬(長岡藩))など16~28人、水夫を加えて約50人から成っていた[95]。 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。
どのように販売の請求書を書くのですか海援隊結成から程なく「いろは丸沈没事件」が発生した。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約)蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。龍馬は万国公法を基に[96]紀州藩側の過失を厳しく追求、さらには紀州藩を批判する流行歌まで流行らせるなどした。後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって5月に紀州藩は、いろは丸が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった。[97][98]。
海運通商活動以外に龍馬は蝦夷地や竹島の開拓も構想しており[99]、後年妻お龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している[100]。 一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)はたびたび金の無心に来る海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している[101]。
[編集] 船中八策と大政奉還
いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年)6月9日に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち兵庫へ向かった。京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春獄・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を書き上げ、後藤に提示した。それは以下の八項目であった。
- 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)
- 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)
- 有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)
- 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)
- 古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)
- 海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)
- 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)
- 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)
以上の八項目は「船中八策」として知られることになる。長岡謙吉が筆記したこれは、後に成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった[102]。
龍馬の提示を受けた後藤は直ちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に容堂は土佐に帰国しており、この為、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝悌・寺村左膳・真鍋栄三郎が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これから程ない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。
7月6日、龍馬が不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられる事件が発生した。龍馬と後藤はこの対応のために長崎へ戻り、龍馬は9月まで英国公使パークスとの談判に当たっていた。結局、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れている(犯人は福岡藩士・金子才吉で事件直後に自刃していた[103])。
後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。その後、薩摩は討幕の準備を進めることになる。
事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1,000余挺を船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、焦燥した龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なき時は、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」[104]と激しい内容の手紙を送っている[105]。 一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。
この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられている。
展望が見えた龍馬は10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあるのに龍馬の名が欠けていて、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話がある。だが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本竜馬』が出典の創作の可能性がある。[106][107]。 が、坂本本人は役人になるのは嫌じゃとおりょうに語り、十一月の陸奥への手紙には「世界の話でもしようか」ともあり[108]尾崎の案と西郷に見せたものは違う名簿という可能性もある。尾崎の手控とされる資料についても数種あり、参議の項に坂本の名の有無、大臣の項に慶喜の名の有無などの違いも指摘されている。
また、11月上旬には船中八策を元に「新政府綱領八策」[109]を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしておいた。龍馬が誰を意図していたのかは様々な説がある。
[編集] 暗殺
詳細は「近江屋事件」を参照
後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に越前へ出向き、松平春獄の上京を促して三岡八郎と会談した後、11月5日に帰京した。
11月15日、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近かった[110][111]。 龍馬は息絶える間際、中岡に「わしは脳をやられちょる。もういかん」と語ったという。中岡と藤吉も致命傷を負い、藤吉は翌日、中岡は翌々日の17日に死亡したが、中岡は死の直前まで意識があり、事件の証言を多く残した。
その後、新選組から分離した御陵衛士の伊東甲子太郎(または他の御陵衛士隊士)が現場に残された鞘を新選組の原田左之助のものと証言したこともあり、新選組の関与が強く疑われた[112]。 また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長・近藤勇は土佐藩士の強い主張によって斬首に処された。また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬暗殺の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を暗殺したと自白するも、後に撤回している。
明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、これが現在では定説になっているが[113][114][115] 確固たる確証はなく、後の歴史学者や人々にとっての憶測により、話が膨らんでいる部分もあり、龍馬暗殺事件は現代に至っても幕末最大のミステリーだと言える。 [110][116]、薩摩藩黒幕説、土佐藩黒幕説、果てはフリーメイソン陰謀説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている[117][118]。
墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社参道中腹。墓碑は桂小五郎が揮毫した。なお、靖国神社にも祀られている。
※年齢は数え歳
[編集] 同時代
- 板垣退助 - 「豪放磊落、到底吏人たるべからず、龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」と、とその早死を惜しんだ。桂浜には、板垣・土方久元らによる「坂本龍馬先生彰勲碑」があり撰文は板垣が揮毫している。また高知の維新の代表である龍馬の銅像が無いのを惜しみ、親戚の彫刻家・本山白雲に依頼して桂浜に龍馬の銅像を建立した。
- 住谷寅之介 - 「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後)
- 平井収二郎 - 「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」(龍馬脱藩後)
- 武市半平太
- 「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)
- 「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で)
- 東久世通禧 - 「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前)
- 勝海舟 - 「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
- 西郷隆盛 - 「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
- 土方久元 - 「その言行すこぶる意表に出で、時としては大いに馬鹿らしき事を演じたれど、また実に非凡の思想を有し、之を断行し得たり」
- 三吉慎蔵 - 「過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」
- 大江卓 - 「坂本は広野の猛獣であった。」
- 関義臣 - 「相手の話を黙って聴き、否とも応とも言わず、さんざん人にしゃべらせておいた後で、「私の説は」とユーモアを交えて話し、自分が大笑いするという愛嬌家だった」
- 陸奥宗光 - 「その見識、議論の高さ、他人を説得する能力に関して彼の右に出る者はいない」
[編集] 死後
箱館戦争が終わった直後の明治2年(1869年)6月から9月に明治政府は論功行賞を行ったが、坂本龍馬には何の行賞も行われなかった。明治3年(1870年)8月に政府は龍馬と中岡慎太郎の家名存続を沙汰し、龍馬の長姉・千鶴の長男・小野淳輔(高松太郎)が坂本直と改名して龍馬の家名を継ぐことになり、永世15人口(30石)が下された。なお、他の維新の元勲の行賞は西郷隆盛は2,000石、木戸孝允は1,500石、後藤象二郎は1,000石であった。[120]
坂本龍馬は維新後しばらくは注目されることのなかった存在だったが、明治16年(1883年)に高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた『汗血千里の駒』が掲載され、大評判となった事により一躍その名が知られるようになった[121]。 明治24年(1891年)には正四位が追贈された。
次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。開戦直前の明治37年(1901年)2月6日、皇后・美子の夢枕に龍馬が立ち、「私が海軍軍人を守護いたします」と語り、皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣田中光顕(土佐勤王党出身で陸援隊幹部だった)が、龍馬の写真を見せたところ、皇后は間違いなくこの人物だと語った。事の真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となった[122]。 日本海海戦で大勝したことで、皇后の御意思により京都霊山護国神社に『贈正四位坂本龍馬君忠魂碑』が建立された。
庶民の間でも龍馬は維新の偉人として人気者となり、戦前には龍馬や海援隊を主題とした映画が多数製作されている。昭和3年(1928年)には高知の青年たちが募った寄付により桂浜に龍馬の銅像が建立された。第二次大戦中の金属供出の際もこの銅像だけは供出を免れている。
そして、昭和37年(1962年)に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が発表され、司馬の代表作の一つとなるとともに、戦後期における龍馬像の典型が形づくられた[123]。
[編集] 異説
2000年代に入ると坂本龍馬とグラバーとの関係を強調して、論者がグラバーがメンバーであったと主張するフリーメイソンと龍馬とを結びつける陰謀論が現れ、テレビ番組でも取り上げられている[124]。 主な論者は作家の加治将一[125]。
異説の内容は以下のようなものである。
- 龍馬は脱藩後に継続的に接触したグラバーの影響を強く受けており、薩長同盟、亀山社中創設、船中八策は龍馬の完全な独創ではないという指摘がある。グラバー商会は、アヘン戦争を推進したイギリスのジャーディン・マセソン商会の直系であり、グラバーの肩書きは、「マセソン商会長崎代理人」であった。龍馬が幅広く権力者と交流できた理由は、彼個人の資質よりも、彼が当時の東洋最大手のイギリス武器商会の「営業マン」だったからだというのが真実に近い、という主張がある。[126]
- 長崎のグラバー邸には、龍馬ら脱藩志士を匿って住まわせたとされる隠し部屋がある。
[編集] 女性関係
龍馬の恋人とされる女性には平井加尾、千葉さな子、そして妻の楢崎龍がいる。
一口分はいくらですか- 平井加尾
- 龍馬の初恋の人とされる。土佐勤王党幹部・平井収二郎の妹で、安政6年(1859年)頃から公卿・三条公睦に嫁いだ山内容堂の妹・恒姫の侍女になっていた。龍馬が京都の加尾宛てに脱藩用意の品(または男装用意の品[127])の調達を依頼する文久元年(1861年)9月13日付の書簡が残っている[127]。加尾はこれらの品を用意したが、結局この時は龍馬は脱藩を決行せず、翌文久2年(1862年)3月に沢村惣之丞とともに脱藩した。龍馬の脱藩後、兄・収二郎から「龍馬からの相談には迂闊に乗るな」と咎められている[128]。
- 文久3年(1863年)6月に平井収二郎が切腹させられると龍馬は6月29日付の姉・乙女宛ての手紙で「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」[55]と加尾を案じている。加尾は後に土佐藩士・西山志澄に嫁ぎ、明治42年(1909年)に72歳で死去した。
- 千葉さな子
- 江戸遊学中に師事した千葉定吉の娘で龍馬と恋仲になり、千葉さな子本人が婚約した事実を語っている[129]。龍馬は姉・乙女宛ての手紙で「(さなは)今年26歳で、馬によく乗り、剣もよほど強く、長刀もできて、力は並の男よりも強く、顔は平井(加尾)よりもよい」と評している[130]。定吉が結婚のために坂本家の紋付を仕立てたが、龍馬の帰国後は疎遠になってしまった。後に龍馬の死を知らされるとこの片袖を形見としてさなは生涯独身を通し、明治29年(1896年)に59歳で死去した。[131]甲府市清運寺にある墓碑には「坂本龍馬室」と刻まれている。一方、明治7年(1874年)に元鳥取藩士山口菊次郎と一時結婚していたとの説もある。[132]
- 楢崎龍
- 京都の医師の長女で、父が死に一家は困窮していた。龍馬はお龍を元治元年(1864年)頃に見初め、同年8月頃に祝言を挙げた[64]。龍馬はお龍の境遇と妹二人を人買いから取り返した武勇談を家族宛ての手紙に詳しく書き送り、彼女を「まことにおもしろき女」と評している[133]。各地を奔走していた龍馬は、お龍を懇意にしていた伏見寺田屋のお登勢に預けた。
- 慶応2年(1866年)1月23日の寺田屋遭難の際に、お龍の機転により危機を逃れた話は有名で、龍馬は姉・乙女宛ての手紙で「このお龍がいたからこそ、龍馬の命は助かりました」と述べている[134]。寺田屋遭難後の同年3月から6月、龍馬はお龍を伴って薩摩へ下り、療養のために各地の温泉を巡った。龍馬は日本最初の新婚旅行といわれる[87]、この旅行の様子を詳細に姉・乙女に報告している[135]。
- その後、お龍は海援隊の拠点がある長崎、下関で過ごし、慶応3年(1867年)12月に龍馬の訃報に接した[136]。お龍は龍馬の未亡人として土佐の坂本家に入ったが、義兄夫婦と反りが合わずに3ヵ月ほどで土佐を出ている。京都、東京、神奈川と縁者を頼って居を移し、明治8年(1875年)、35歳のときに大道商人・西村松兵衛と再婚した。明治の中頃以降に龍馬が世間の注目を集めるようになると取材に応じて龍馬についての回顧談を残した。明治39年(1906年)に66歳で死去。墓碑には夫の西村松兵衛の名ではなく「贈正四位阪本ママ龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている。
その他に、高知の漢方医の娘・お徳[137]や公家の腰元・お蝶[138]、長崎の芸妓・お元[139]、京都の旅宿の娘・お国[140]などの名が伝わるが詳細真偽は不明である。
[編集] 手紙と変名
- 現存または筆写された龍馬の手紙は、一部で疑問視されるものも含めて、130余通が確認されている。もっとも多いのは姉乙女宛のもので13通、次に伊藤助太夫と佐々木高行宛の各12通、これに三吉慎蔵宛が10通、桂小五郎宛が9通と続いている。ほかに乙女宛と推定されるものが2通、乙女・おやべ[141]連名のものも2通、兄の坂本権平・乙女・おやべ連名のものが1通、乙女と姪の坂本春猪連名のものも1通あり、乙女を対象としたものが圧倒的に多い。妻・お龍宛の手紙は1通のみ残されている。
- 龍馬の変名といえば、慶応2年(1866年)11月16日付で溝渕広之丞に宛てた手紙に、初めて記された「才谷梅太郎(さいだに うめたろう)」が有名であるが、慶応元年9月9日付で乙女とおやべに宛てた手紙には「西郷伊三郎」と名乗っていることが記されている。他に「高坂龍次郎」「大浜涛次郎(とうじろう)」「取巻の抜六(とりまきのぬけろく)」等がある。なお、これは変名ではないが、慶応3年(1867年)11月13日付と推定される陸奥宗光に宛てた手紙では、「自然堂(じねんどう)」の号を署名している[142]。
[編集] 愛用の品
- 当時、土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友の檜垣清治が龍馬と再会した時、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した檜垣は短い刀を差すようにした。次に再会したとき、檜垣が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した檜垣はさっそく拳銃を買い求めた。三度再会したとき、檜垣が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。もはや檜垣はついていけなかったという。龍馬の性格を鮮やかに描写している逸話として有名だが、当事者の檜垣清治は文久2年(1862年) に人を殺めて投獄され、維新後に赦免されるまで獄中にあり、龍馬と再会することはなく、大正3年(1914年)に著された千頭清臣『坂本龍馬』における創作である。[143]
- 龍馬が愛用した拳銃は2丁あると言われている。ひとつは高杉晋作から贈呈されたS&Wモデル2アーミー 33口径6連発で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃であると言われている。後日、兄坂本権平宛ての手紙の中で「右銃ハ元より六丸込ミな礼(れ)ども、其時ハ五丸のミ込てあれば」と6連発銃であることを示唆している。しかし同事件の際に紛失し、後に買い求めたのがS&Wモデル1/2 32口径5連発で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、姉乙女宛てに「長サ六寸計(ばかり)五発込懐剣より八ちいさけれども、人おうつに五十間位へだたりて八打殺すことでき申候」と書き送っている。薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。当然この銃は暗殺された時も携帯していたが、発砲することなく殺害されている。
- 龍馬最期の刀は二尺二寸の刀、銘「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」である。龍馬の手紙には、随所に刀の話が出てくる。彼が兄権平に求めた先祖伝来の一品で、慶応3年(1867年)2月、山内容堂に会見するため土佐を訪れた西郷隆盛に「吉行」の刀をことづけ、3月中旬頃長崎の龍馬のもとに届いた。京都に行く時は、いつもこれを差して、兄の贈り物だと自慢していた。[144]
[編集] 身体的特徴
- 身長6尺(約182cm。写真と当時着用していた紋付のサイズを元に研究者が計算したところでは180cm[145])と江戸時代の当時としてはかなりな大男であったといえるだろう。なお、他の研究では174cmや169cm・62kg[146]という説もある。
- 親戚である武市半平太も大男で、武市とは「アギ(あご)」「アザ(痣)」とあだ名で呼び合う仲だった。
[編集] 家系・家族
龍馬自身は紀姓で紀貫之の子孫と称したという。墓石にも「坂本龍馬 紀直柔」と名が彫られている。 坂本家が主君に差し出した『先祖書指出控』には、「先祖、坂本太郎五郎、生国山城国、郡村未だ詳らかならず、仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住す。但し年歴、妻之里、且つ病死之年月等未詳」とある。 天正16年(1588年)の才谷村の検地で村の3番目の百姓として登録されているにすぎず、3代目太郎左衛門までは公認の名字を持たない百姓身分と考えられる。2代目彦三郎、3代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。4代目守之、5代目正禎は才谷村の字の一つである「大浜」を家名として名乗り始める。
寛文6年(1666年)、3代目太郎左衛門の次男・八兵衛は高知城下にでて質屋を開業(屋号は才谷屋)し、酒屋、呉服等を扱う豪商となる。享保15年(1730年)ころ本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるにいたった。明和7年(1770年)、6代目直益は郷士の株を買い長男・直海を郷士坂本家の初代とし分家させ、名字帯刀、すなわち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分にたどりついた。次男直清には商家才谷屋をつがせている。郷士坂本家3代目直足は白札郷士山本信固(覚右衛門)の次男としてうまれ坂本家へ養子として入った。直足の次男が直柔(坂本龍馬)である。妻はお龍(楢崎龍)、また千葉さな子は婚約者だったと言われる。
郷士坂本家は5代当主の直寛の時の明治30年(1897年)に一族を挙げて北海道に移住した(土佐訣別)ため、現在は高知には龍馬はもとより郷士坂本家の人々はいない。直寛は、武市半平太の後に武市家を継承した武市安哉らとともに、キリスト教に基づく自由民権運動を行っており、この考えによる理想のまちづくりを夢見て、新天地である北海道に移住した。
自由民権運動家の板垣退助は、同じ土佐藩出身であり、坂本家は山本信固(覚右衛門)家を通じて親戚関係の間柄である[147]。 坂本家の後嗣・坂本直寛(龍馬の甥)は、その縁で板垣とは親しく、自由民権の遊説活動を行っていた。
小説では、坂本家は明智光秀の娘婿・明智秀満の末裔[148] とし、坂本姓の由来は、本能寺の変以前、明智氏所領であった坂本(現滋賀県大津市坂本)に由来するとの話もあるが、坂本の地名は全国に多数ある。このようなことからも、後世の創作だろうとする声も強い[149]。
坂本家の家紋は「組み合わせ桝に桔梗」。
[編集] 略系図
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八郎兵衛 直益 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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郷士坂本家 (1) 八平 直海 | 才谷屋坂本家 八次 直清 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(2) 八蔵 直澄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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幸 |
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| (3) 八平 直足 (山本信固の次男) |
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| 伊予 (後妻、北代平助の長女) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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千野 (川原塚茂太郎の姉) |
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| (4) 権平 直方 | 千鶴 (高松順蔵の妻) | 栄 (柴田作左衛門の妻) | 乙女 (岡上樹庵の妻) | (Ⅰ) 龍馬 直柔 |
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| お龍 (楢崎将作の娘) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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春猪 (婿に鎌田清次郎) | (Ⅱ) 太郎 直 (龍馬の養子に) |
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| (Ⅲ) 直衛 |
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鶴井 |
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| (5) 南海男 直寛 (権平の養子に) |
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| 翠 (後妻、旧姓・中沢) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(7) 弥太郎 (浜武弥平の次男) |
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| 直井 | (6)(Ⅳ) 直道 (直衛の養子に) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(8) 直行 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
実線は親子関係、破線は夫婦関係。
括弧にアラビア数字は郷士坂本家の当主の代数、括弧にローマ数字は分家した龍馬系統の坂本家の当主の代数。
[編集] 名前を冠した施設
- 平成22年(2010年)のNHK大河ドラマ『龍馬伝』の番組と並行して2010年NHK大河ドラマ特別展「龍馬伝」と称して、江戸東京博物館、京都文化博物館、高知県立歴史民俗資料館、長崎歴史文化博物館と四箇所で坂本龍馬に関する展示会が行われた。坂本龍馬の手紙や遺品など170点を一堂に集めた過去最大の龍馬展となり、入場者数は東京14万1千人、京都6万7千人、高知3万2千人、長崎4万6千人を記録した。
- 京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されている。それは淡海槐堂が暗殺当日に誕生日祝いとして贈った『梅椿図』という作品である。付着した血痕は暗殺された龍馬らのものとされている。
- 平成12年(2000年)、京都国立博物館所蔵の坂本龍馬関係の資料が国の重要文化財に指定された。幕末の人物資料が重文に指定されるのは、初めてだった。龍馬が乙女あてに、西郷との交流や妻・お龍との新婚生活ぶりを詳細に記した書状や、海援隊に関する基礎資料などの記録類。『梅椿図』、衣類なども指定された。[151]
[編集] 小説
[編集] 漫画
- 坂本龍馬を主人公とした漫画
- その他の漫画
[編集] 映画
- 坂本龍馬を主人公とした映画
- その他の映画
[編集] TVドラマ
- 坂本龍馬を主人公としたTVドラマ
- その他のTVドラマ
[編集] 舞台
[編集] 関連文献
[編集] 原典
- 尾佐竹猛解題 『近世社会経済学説大系〈第14〉 坂本龍馬・由利公正集』、誠文堂新光社、 1935年
- 平尾道雄監修、宮地佐一郎編・解説 『坂本龍馬全集』 光風社書店
- 限定版、1978年5月、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: pp.907 - 952
- 宮地佐一郎編・解説 『坂本龍馬全集』 光風社書店
- 宮地佐一郎編・解説 『坂本龍馬全集』 光風社書店
- 増補3訂版、1982年11月、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: pp.987 - 1032
- 宮地佐一郎編・解説 『坂本龍馬全集』 光風社書店、ISBN 4-87519-400-5
- 増補4訂版、1988年5月、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: pp.1045 - 1090
- 岩崎英重・日本史籍協会編 『坂本龍馬關係文書〈1・2〉』、〈日本史籍協会叢書.115・116〉東京大学出版会
- 日本史籍協会、1926年刊の複製、1967年、1988年12月~1989年1月
- 日本史籍協会編 『坂本龍馬関係文書〈1・2〉』、北泉社
- 日本史籍協会、1926年刊の複製、1996年9月
- 宮地佐一郎編・解説 『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集.付.関係文書・詠草』、旺文社文庫、1984年
- 宮地佐一郎編・解説 『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』、PHP研究所〈PHP文庫〉、1995年8月
- 宮地佐一郎編・解説 『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』、講談社〈講談社学術文庫〉、2003年12月、ISBN 4-06-159628-4:上記2冊を増補。
- 京都国立博物館編 『坂本龍馬関係資料』 京都国立博物館、1999年8月
[編集] 書籍
[編集] 論文
- 岩崎鏡川「坂本龍馬先生に就て」(『土佐史談』15、1926年)
- 尾佐竹猛「坂本龍馬の『藩論』」(『明治文化研究』9、1934年。『土佐史談』46、1934年に再録)
- 松村巌「坂本龍馬」(『土佐史談』68、1939年。『続新選組史料集』新人物往来社、2006年に再録)
- 赤尾藤一「幕末に於ける薩長両藩の提携成立と坂本龍馬等土州藩士の周旋運動に就いて」(『中部日本歴史地理学会論文集』1、飯島書店、1941年)
- 森銑三「坂本龍馬」(『伝記』1月号、1943年。『森銑三著作集 続編』第1巻、中央公論社、1992年に再録)
- 塩見薫「才谷屋のことなど」(『寧楽史苑』8、1952年)
- 塩見薫「文久年間の大政返上論-坂本龍馬伝の一説-」(『日本歴史』95、1956年)
- 高橋信司「いわゆる「藩論」」(『高知短期大学社会科学論集』2、1956年)
- 塩見薫「坂本龍馬語録と伝えられる『英将秘訣』について」(『歴史学研究』208、1957年)
- 塩見薫「坂本龍馬の元治元年-薩摩藩への結びつきを中心に-」(『日本歴史』108、1957年)
- 池田敬正「土佐藩における討幕運動の展開」(『史林』40‐5、1957年。三宅紹宣編『幕末維新論集4 幕末の変動と諸藩』吉川弘文館、2001年に再録)
- 平尾道雄「龍馬と勝海舟書翰」(『土佐史談』93、1958年)
- 井上清「坂本龍馬」(『朝日ジャーナル』157、1962年。『日本の思想家』I、朝日新聞社、1962年、および『新版日本の思想家』上、朝日新聞社、1975年に再録)
- 原口清「「藩論」覚え書」(『日本歴史』176、1963年)
- 土居晴夫「神戸海軍操練所考」(『土佐史談』115、1966年)
- 土居晴夫「兵庫海軍局始末」(『歴史と神戸』25、1967年)
- 土居晴夫「海軍操練所始末」(『歴史と神戸』26、1967年)
- 土居晴夫「神戸海軍操練所史考」(『軍事史学』13、1968年。「坂本龍馬の神戸時代」と改題の上、『平尾道雄追悼記念論文集』高知市民図書館、1980年に再録)
- 広谷喜十郎「勃興期の才谷屋に関する一考察」(『土佐史談』122、1969年)
- 土居晴夫「神戸海軍塾の青年群像」(『神戸史談』226、1970年)
- 鵜沢義行「幕末における尊攘的開明論と坂本龍馬の周辺について」(『日本法学紀要』11・12、1970年)
- 平尾道雄「高杉晋作と坂本龍馬」(『中央公論』86-5、1971年)
- 飯田嘉郎「伊呂波丸事件について」(『海事史研究』16、1971年)
- 船津功「「大政奉還」をめぐる政権構想の再検討-坂本龍馬「新官制案」の史料批判を中心に-」(『歴史学研究』375、1971年)
- 井上勲「大政奉還運動の形成過程(一)(二)」(『史学雑誌』81-11・81-12、1972年)
- 石井孝「船津功氏「『大政奉還』をめぐる政権構想の再検討」を読んで」(『歴史学研究』380、1972年)
- 井上勲「激動期の政治リーダー-坂本龍馬と中岡慎太郎-」(『エコノミスト』51-42、1973年)
- 山本大「坂本龍馬の大義料」(『日本歴史』322、1975年)
- 池田敬正「司馬遼太郎『竜馬がゆく』をめぐって」(『歴史評論』317、1976年)
- 絲屋寿雄「竜馬の虚像・実像-司馬遼太郎『竜馬がゆく』によせて-」(『歴史評論』317、1976年)
- 飛鳥井雅道「「奉還」と「討幕」-坂本龍馬の三つの文書-(上)」(京都大学『人文学報』41、1976年)
- 鹿野政直「国民の歴史意識・歴史像と歴史学」(『岩波講座日本歴史24別巻1』岩波書店、1977年)
- 尾崎秀樹「龍馬像の変遷」(『歴史と人物』80号、1978年)
- 井上勲「坂本龍馬の可能性」(『歴史と人物』80号、1978年)
- 亀掛川博正「公議政体論と土佐藩の動向(I)(II)(III)」(『政治経済史学』154・156・157、1979年)
- 鈴木教道「西郷隆盛の思想と人格-幕末における坂本龍馬の人間像との比較において-」(『現代科学論叢』13、1979年)
- 山本大「坂本龍馬の思想と行動」(『歴史と人物』129、1982年)
- 井上勝生「維新変革と後発国型権力の形成-王政復古クーデタを中心に-」(『日本史研究』271、1985年。井上勝生『幕末維新政治史の研究』塙書房、1994年に再録)
- マリアス・ジャンセン、秦郁彦訳「坂本龍馬と近代日本」(『土佐史談』170、1985年)
- 山本大「海援隊と長崎商会」(『土佐史談』170、1985年)
- 土居晴夫「坂本龍馬と「北辰一刀流長刀兵法目録」」(『土佐史談』170、1985年)
- 広谷喜十郎「坂本龍馬と立川関」(『土佐史談』170、1985年)
- 小西四郎「坂本龍馬とその時代」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
- 山本大「藩意識をなぜ持たなかったか」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
- 毛利敏彦「薩長同盟をなぜ画策したか」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
- 松浦玲「「船中八策」の真意は」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
- 井上勲「大政奉還立案の真相は」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
- 青山忠正「薩長盟約の成立とその背景」(『歴史学研究』557、1986年)
- 石尾芳久「坂本龍馬の死-言論と暴力-」(『関西大学法学論集』36-3・4・5合併号、1986年)
- 松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流兵法目録」(『日本歴史』454、1986年)
- 土居晴夫「検証・坂本龍馬の書状」(『歴史と神戸』144、1987年)
- 荒尾親成「検証・坂本龍馬の書状-土居晴夫氏に答える-」(『歴史と神戸』145、1987年)
- 遠山茂樹「坂本龍馬が活動した時代」(小西四郎ほか編『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年。のち、『遠山茂樹著作集』第1巻、岩波書店、1991年に再録)
- 井上清「明治維新と中岡慎太郎-坂本龍馬とくらべて-」(『明治維新と中岡慎太郎』北川村、1990年。『井上清史論集1明治維新』岩波現代文庫、2003年に再録)
- 松浦玲「坂本龍馬の実像」(『日本近代史の虚像と実像』第1巻、大月書店、1990年。松浦玲『検証・龍馬伝説』論創社、2001年に再録)
- 梶輝行「幕末土佐藩における西洋砲術の導入・伝習-徳弘孝蔵を中心に-」(『史叢』50、1993年)
- 箱石大「坂本龍馬の人物像をめぐって」(『歴史評論』530、1994年)
- 堤克彦「横井小楠の交友関係-小楠と龍馬を中心として-」(『熊本史学』70・71合併号、1995年)
- 一坂太郎「薩長同盟の新事実-坂本龍馬周旋説の虚実-」(『歴史読本』41-19、1996年。のち、新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』新人物往来社、1997年に再録)
- 家近良樹「「大政奉還論」の系譜」(『歴史読本』42-8、1997年)
- 三上一夫「福井時代の坂本龍馬」(『歴史読本』42-8、1997年)
- 岸本覚「幕末海防論と「境界」意識-「志士」集う「場」を中心に-」(『江戸の思想9 空間の表象』ぺりかん社、1998年)
- 木村幸比古「龍馬関係資料について」(『霊山歴史館紀要』13、2000年)
- 青山忠正「土佐山内家重臣・寺村左膳-薩土盟約と政権奉還建白-」(佐々木克編『それぞれの明治維新』吉川弘文館、2000年。青山忠正『明治維新の言語と史料』清文堂出版、2006年に再録)
- 青山忠正「文体と言語-坂本龍馬書簡を素材に-」(『佛教大学総合研究所紀要』8、2001年。青山忠正『明治維新の言語と史料』清文堂出版、2006年に再録)
- 木村幸比古「海舟と龍馬」(『霊山歴史館紀要』14、2001年)
- 福田一彰「大政奉還に至る坂本龍馬の尊王思想について」(『霊山歴史館紀要』15、2002年)
- 木村幸比古「龍馬の剣術」(『霊山歴史館紀要』15、2002年)
- 松下祐三「薩長商社計画と坂本龍馬-坂崎紫瀾の叙述をめぐって-」(『駒沢史学』59、2002年)[4]
- 三宅紹宣「薩長盟約の歴史的意義」(『日本歴史』647、2002年)
- 高橋秀直「「公議政体派」と薩摩倒幕派-王政復古クーデター再考-」(『京都大学文学部研究紀要』41、2002年。高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館、2007年に再録)
- 高橋秀直「幕末史の中の薩長同盟」(『幕末から明治へ』同志社大学人文科学研究所、2004年)
- 北野雄士「横井小楠と坂本龍馬-その共通性と異質性-」(『大坂産業大学人間環境論集』3、2004年)
- 田中彰「天保の青年たちの「明」と「暗」」(『歴史読本』49-7、2004年)
- 三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画-杉浦梅潭文庫「浪士一件」の紹介を兼ねて-」(『歴史読本』49-7、2004年)
- 松下祐三「薩長商社計画の虚実」(『歴史読本』49-7、2004年)
- 前田宣裕「竜馬暗殺と会津藩」(『歴史読本』49-7、2004年)
- 井上勲「開国と幕末の動乱」(井上勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』吉川弘文館、2004年)
- 中城正堯「龍馬ゆかりの襖絵や宣長の短冊-『中城文庫』誕生の発端と内容」(『大平山』第30号、2004年)
- 小林和幸「谷干城の慶応三年」(『駒沢史学』第64号、2005年)
- 高橋秀直「薩長同盟の展開-六ヶ条盟約の成立-」(『史林』452、2005年。高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館、2007年に再録)
- 青山忠正「文久・元治年間の政局と龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
- 宮川禎一「坂本龍馬の生涯と書簡」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
- 三浦夏樹「土佐と坂本龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
- 古城春樹「下関と坂本龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
- 青山忠正「龍馬は『暗殺』されたのか」(NHK学園機関紙『れきし』第92号、2005年)
- 松岡司「坂本龍馬「京都日誌」」(『歴史読本』51-7、2006年)
- 大塚桂「大政奉還論・再考(1)(2)」(『駒澤法学』第18・19号、2006年)
- 桐野作人「龍馬遭難事件の新視角-海援隊士・佐々木多門書状の再検討- 第1回・第2回・最終回」(『歴史読本』第51巻第10号・第51巻第11号・第51巻第12号、2006年)
- 桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)
- 濱口裕介「師とともに目指したアジア諸国共有海軍への夢」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)
- 松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)
[編集] 参考文献
- 瑞山会『維新土佐勤王史』(富山房、1912年)
- 勝安芳 『勝海舟全集〈21〉氷川清話』(講談社、1973年)
- 宮地佐一郎編・解説 『坂本龍馬全集』(光風社書店、1988年)ISBN 4-87519-400-5
- 飛鳥井雅道 『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)ISBN 978-4-06-159546-0
- 宮地佐一郎 『龍馬の手紙』 (講談社学術文庫、2003年)ISBN 978-4-06-159628-3
- 鈴木かほる『史料が語る 坂本龍馬の妻お龍』(新人物往来社、2007年)ISBN 978-4-404-03513-4
- 松浦玲 『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)ISBN 978-4-00-431159-1
- 佐々木克 『坂本龍馬とその時代』(河出書房新社、2009年)ISBN 978-4-309-22519-7
- 菊地明、伊東成郎、山村竜也 『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)ISBN 978-4-404-03757-2
- 菊池明『龍馬暗殺 最後の謎』(新人物往来社、2009年)ISBN 978-4-404-03769-5
- 相川司『龍馬を殺したのは誰か--幕末最大の謎を解く』(河出書房新社、2009年)ISBN 978-4-309-40985-6
- 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2009年)ISBN 978-4-404-03762-6
- 『坂本龍馬と海援隊』 (新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)ISBN 978-4-05-605751-5
- 『坂本龍馬伝』(新人物往来社、2009年)ISBN 978-4-404-03647-6
- 『幕末土佐の群像』(学研パブリッシング、2009年)ISBN 978-4-05-605578-8
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