清朝の衰退
清朝の衰退
清朝の衰退
◎中国のアヘン戦争のあたりから教えてください。
よろしい。まず、中国とは何か?
市場である!
19世紀初頭、中国の人口はすでに3億人を突破(!)。この世界最大の人口を持つ中国に工業製品を売り込めば、どれほどの利益を得られるか。産業革命をなしとげ、世界最初の工業国となった英国は、そう考えたのです。けれども、中国にモノを売り込むには、さまざまな障害がありました。英国はこれにいらだち、ついには武力に訴えることになります。
◎どんな障壁があったの?
中国は世界で最も豊かな国でしたから、何かを外国から買う必要はなかったのです。中国がおこなった唯一の貿易は朝貢ちょうこう貿易と呼ばれるもので、これは経済的な必要というよりは、政治的な必要から認められた、儀式のような貿易でした。儒学の考えによれば、全世界の支配者である中国皇帝は有徳者(道徳的に正しい人物)だから天命を授かったのであり、この徳を慕って周辺諸国の王たちは貢ぎ物を献上し、お返しに王位や官位を授与(冊封さくほう)されるというのです。これを冊封体制といいます。中国に始めてやってきた英国の東インド会社も、朝貢国の一つとして、うやうやしく頭を下� ��、広州1港、しかも公行と呼ばれる独占商人を通じてのみ貿易を許されました。乾隆けんりゅう帝の1757年のことです(この年、インドではプラッシーの戦い)。
それから半世紀の間に、英は産業革命をなしとげ、蒸気船を発明し、世界唯一の工業国となったのです。権力を握った産業資本家は、自由貿易を掲げて世界中に綿製品を売りまくり、ついに中国市場に目をつけます。まず東インド会社の中国貿易独占権を廃止、次に清朝に対して、朝貢貿易ではなくて自由貿易を認めるよう要求します。乾隆帝と会見したマカートニー、嘉慶かけい帝に対する三跪九叩頭さんききゅうこうとう(3回ひざまずき、9回額を床に打ち付ける、という朝貢国としての礼儀)を拒否して会見を拒否されたアマーストの使命は、清朝に自由貿� �を認めさせることでした。これらの努力に失敗したあと、英国はアヘンの密貿易にのりだすとともに、武力による清朝の開国を計画し、チャンスを狙いました。こうしてアヘン戦争(1840)へと突入するのです。
中国の発想では、政治と経済は一体のものでした。自由貿易を認めることは清朝皇帝と英国王との対等外交を認めることにつながり、ほかの朝貢国に対してしめしがつかなくなる。下手をすれば、皇帝を世界の支配者とする冊封体制そのものがゆらいでしまう。だから、自由貿易は認めない。それに、彼らには自分たちが中華文明の担い手であるという強烈なプライドがあり、禽獣きんじゅう(けだもの)に等しい夷狄(いてき=野蛮人)である西洋人に負けるはずがない、と確信していたのです。
◎プライドっていうより傲慢ね! さて、アヘン戦争について教えてください。
英国によるアヘンの密輸があきらかになると、清朝の欽差きんさ大臣(皇帝代理)である林則徐が広州にやってきて英国商館のアヘン2万箱を没収、焼却します。英国ではパーマストン外相が軍隊の派遣を提案し、多くの反対(自由党の議員グラッドストンはこの戦争を"恥ずべき戦争"と呼びました)があったにもかかわらず、議会は派兵を決定します。英国艦隊は広州上陸をはかりますが、中国民衆の抵抗(平英団)にあって撤退。蒸気船を主力とする25隻の艦隊は沿岸を砲撃しつつ北上して長江にはいり、南京攻撃の準備をします。これに驚いた清朝政府は強硬派の林側徐を解任し、英軍艦上で和平交渉にはいりました。こうして南京条約(1842)が調印されたのです。公行は廃止、広州・厦門アモイ・福州・寧波ニンポー・上海シャンハイの沿岸5港を開港。香港が英国に割譲されますが、これは広州近くの小島で、ここに英軍をおいて広州貿易ににらみをきかせるわけです。このことからも、英国の戦争目的が領土獲得でなく自由貿易だったことは明らかです。翌年の虎門寨こもんさい追加条約では、英国人に清朝の法律を適用しない治外法権、清朝が自主的に関税を決めることをみとめない関税協定権、清朝が 別の国との条約でより有利な条項を認めた場合には、その条項を英国にも適用するという最恵国さいけいこく待遇を認めさせました。
◎アロー戦争はどうして起こったの?
歴史の中で雄弁な人です。南京条約は英国の軍事力に驚いた清朝政府が、時間かせぎのために結んだ休戦条約であり、英国も決定的勝利をおさめたわけではなかったので、自由貿易による中国の市場化という目的からみれば、条約の内容はきわめてあいまいで不十分なものでした。清朝はまだ対等外交を認めず、たった5港の開港では、貿易額もほとんど増えていません。より一層の市場開放を目指す英国のパーマストン首相は、クリミア戦争で一緒に戦ったフランスのナポレオン3世とともに再出兵の機会をうかがいます。
英国国旗を掲げる海賊船アロー号が清朝に拿捕されたアロー号事件、フランス人宣教師が処刑された事件(雍正帝以来、清朝はキリスト教の布教を禁止)を口実に英仏は出兵します。北京の外港・天津を占領した英仏は天津テンシン条約をおしつけますが、その内容に反発した清朝が英仏使節を攻撃したため再出兵、今度は首都北京を占領し、雍正ようせい帝が建設した円明園を破壊、北京条約(1860)をおしつけます。清朝は新たに11港を開港、これには天津や長江流域の諸港も含まれ、外国製品の輸入は止められなくなりました。さらに、香港対岸の九竜半島南部を割譲。清朝が最も嫌った英仏との対等外交(これが天津条約を拒否した最大の理由)も実現しました。外国公使の北京駐在を認め、外交窓口も、それまで担当していた礼部(朝貢国を扱う部署)から新設の総理衙門がもん(外務省)に引き継がれます。キリスト教布教の自由によりキリスト教宣教師の布教が再開されますが、儒学・道教・仏教など伝統宗教と対立し、各地で反キリスト教運動(仇教< span>きゅうきょう
運動)が起こります。
それと、北京条約はもうひとつあるんです。クリミア戦争で敗れ、黒海艦隊を禁止された露のアレクサンドル2世は、東アジアへ矛先を転じます。皇帝代理として清朝との外交をまかされた東シベリア総督ムラヴィヨフは、アロー戦争による清朝の弱体化に乗じて2つの条約を結びました。凍らない海、日本海への出口をおさえるのが目的です。アイグン条約(1858)でアムール川(黒竜江)以北を併合、北京条約(1860)でウスリー江以東(沿海州)を併合し、沿海州の最南端に軍港ウラジヴォストークを建設します。
◎戦争には負けるわ、領土は取られるわ、踏んだりけったりね。
清朝は、少数民族である満州族(推定人口50万人程度)が、3億人を越える漢人を支配する征服王朝です。このような不安定な王朝が 300年も続いたのは、科挙を実施し、漢人を官僚として採用したからです(この点が中国人を差別した元とは違います)。官僚となった漢人の地主が、清朝の実質的な支配者でした。彼らは地方政治のボスであり、徴税権を握り、わいろを要求しました。
特にアヘン戦争以後、中国から銀が流出して銀価格が高騰し、税は銀で取り立てますから(清朝の税制は地丁銀だったよね!)、同じ銀1両の税を納めるのにも、農民はより多くの農産物を差し出すことになり、結局は増税になります。飢えた農民が流民となり、そこに指導者が現れると農民反乱に発展するのは、中国史で繰り返された通りです。太平天国の乱(1851-) はこうして起こったのです。科挙に失敗した洪秀全が天帝のお告げと称して上帝会を結成し、清朝打倒をめざす"滅満興漢"を掲げて50万の流民を吸収して北上、南京を占領して天京てんけいと改め、地主の土地を没収して農民に分配する天朝田畝てんちょうでんぽ制度、弁髪の廃止などの政策を発表します。
◎太平天国はどうして鎮圧されちゃったの?
第1に、組織の問題。結局、太平天国は洪秀全を皇帝とする独裁国家で、洪に不満をもつ部下の裏切りから、内部抗争が起こったこと。第2にアロー戦争が終わって、清朝が反撃に出たこと。とはいえ、清朝の正規軍(八旗/はっき)は時代遅れで役立たず。結局、太平天国にとどめをさしたのは、上海防衛軍の常勝軍(米人のウォード、英人ゴードンが指揮。ゴードンはのち、アフリカのスーダン総督に出世し、マフディーの乱で戦死)や、漢人地主が組織した傭兵部隊=郷勇きょうゆうです。これ以後、曾国藩そうこくはん・李鴻� ��りこうしょうなど郷勇の指揮官たちが、宮廷で権力を握ります。彼らは西欧の技術を導入して軍を近代化する洋務運動をはじめます。
◎清朝はホッと一息って感じ?
は-この時期を同治中興どうちちゅうこうといいます。アロー戦争で北京を追われた咸豊かんぽう帝は、逃亡先で持病の結核が悪化して血を吐いて死亡し、息子の同治帝が5歳で即位、西太后せいたいごうが摂政として最高権力を握り、洋務運動を推進します。これは、アヘン戦争・アロー戦争の敗北を、単純に軍事技術の差にあると考え、清朝の専制(皇帝独裁)を守るために、西洋の技術を導入する"中体西用"の発想です。
ところで、洋務運動が行われた1860年代には、イタリア統一とドイツ統一、アメリカの南北戦争、日本の明治維新で4つの統一国家が生まれました。これらの遅れた国々は、先進国の英・仏に追いつき追い越せと植民地獲得に乗り出し、世界は帝国主義の時代に突入します。列強はアフリカと太平洋を分割しつくすと、東アジアに目を向けます。フランスはヴェトナム、日本は朝鮮に標的を定めました。朝貢国を失うことを阻止しようとした清朝は清仏戦争と日清戦争で連敗し、ついに清朝自身が勢力圏と租借地に分割されます。
日清戦争で、軍事力に劣る日本に敗れたことは、洋務運動の失敗を明らかにしました。戦争に参加したのは李鴻章の配下の傭兵隊で、訓練も不十分で、そもそもやる気がない。一般の民衆はまったく無関心。すでに憲法と国会を持ち、挙国一致で戦争にあたっている日本には、まったく歯が立たません。下関条約を締結した李鴻章は、敗戦責任を問われて失脚します。
◎やっぱり、だめだったのね。
日清戦争後、成人した光緒こうしょ帝が、改革派官僚の康有為こうゆうい・梁啓超りょうけいちょうの意見を採用して立憲君主制の採用に踏み切ります(変法運動)。これは明治維新を模範とし、憲法制定と国会開設を目指す画期的なものでした。康も梁も、科挙で選ばれた官僚ですから儒学の教育を受けているわけですが、儒学のなかでも政治批判の傾向が強い公羊くよう学を学んだグループです。彼らの前に立ちはだかったのが西太后でした。立憲制が導入されれば、満州人の皇帝から漢人多数の議会� ��権力が移ってしまうと恐れたのです。西太后の命により、軍を掌握する袁世凱えんせいがいが変法派打倒のクーデタを起こします。これが、戊戌ぼじゅつの政変です。光緒帝は幽閉され、康・梁は日本へ亡命、変法運動は"百日維新"に終わりました。この西太后が同治・光緒・宣統の3人の幼帝の摂政として君臨した半世紀の間に、清朝の崩壊は決定的となりました。
袁世凱は李鴻章の後継者です。李鴻章が育てた北洋新軍を引き継ぎ、戊戌の政変で西太后に接近、義和団事件のときも8か国連合軍と西太后の間を取り持ち、清朝最大の実力者となります。とはいえ義和団以後の清朝は、北京議定書(1901)で国家予算の10年分の賠償金を要求されたうえ、外国軍隊が北京に駐留し、まさに半植民地状態でした。アロー戦争後の北京条約で外国公使の北京駐在が認められましたが、このとき置かれた公使館が今回、義和団に襲われたため、北京議定書では公使館を防衛するため外国軍隊の北京駐留を認めさせたのです。北京条約と北京議定書を混同しやすいので、注意!
◎北京条約が外国公使の北京駐在で、北京議定書が北京駐兵権か。これはまぎらわしいぞ。
続く日露戦争では満州が戦場となり、西太后・袁世凱コンビもようやく政治改革の必要を悟り、科挙の廃止(1905)、明治憲法をもとにして憲法大綱たいこうを発布(1908)、北京の北洋新軍だけだった洋式軍隊(新軍)を各省に置き、その幹部を日本に留学させます(彼らが東京で孫文の革命運動に影響され、辛亥革命を起こします)憲法大綱発布の1908年、西太后は3歳の宣統帝を次期皇帝に指名して没します(この前日、幽閉中の光緒帝は西太后が差し入れた食事を食べて死亡。37歳でした)。しかし約束された国会が開催される前に辛亥しんがい革命が勃発、清朝は滅亡します(1912)。
◎辛亥革命はどのように起こったの?
宣統帝の父・醇じゅん親王は光緒帝の弟です。彼は兄の恨みをはらすため、戊戌の政変の責任者である袁世凱を解任、満州人だけの内閣を組織します。しかし、義和団事件の賠償金を払えず、国家財政は英・米・仏・独からの借款しゃっかんに依存し、借款の担保にするため民間の幹線鉄道を没収して国有化するという愚策を犯しました。これは、民間鉄道に出資していた漢人の地主官僚を敵に回すことを意味します。地主官僚を味方にすることで清朝は維持されてきたのに! 西太后ならこんなばかなことはしなかったはずです。
&は何ですか?
1912年、鉄道国有化に反対する四川暴動が発生、鎮圧を命じられた湖北新軍が清朝に反逆して武昌ぶしょうで蜂起(10月10日。双十節=革命記念日)。各地の新軍が清朝からの独立を宣言し、南京に孫文を迎えて中華民国の建国を宣言。あせった醇親王は新軍創設者の袁世凱を復権させ、南京制圧を命じます。ところが袁は孫文と取り引し、臨時大総統(大統領)の地位を譲り受けることを引き換えに、逆に北京を占領し、8歳の宣統帝を退位させます。袁世凱はその後、孫文を排除して独裁化し、ついには帝政を宣言しますが、各地で反乱が起こり、袁世凱は皇帝になれぬまま病死します。
日本の近代化と朝鮮
◎日本と朝鮮の関係について教えてください。
近代以前の清朝・李氏朝鮮・日本の関係はこうなっていました。清朝皇帝が朝鮮国王を冊封さくほう(家臣として国王に任命)し、朝貢を受ける。朝鮮国王は、徳川将軍家を日本国王と考え、対等の外交をする。かつて朝鮮を侵略した豊臣家を徳川家が滅ぼしたので、徳川幕府に対して朝鮮はとても友好的でした。将軍の代替わりがあると、江戸までお祝いの使者(朝鮮通信使)を遣わしてきたほどです。この関係が、明治維新によって一変したのです。
◎明治維新って、中学の時に教わったけど、なんかよくわからないな…
明治維新は、薩摩さつま・長州の下級武士による革命でした。まず、アメリカが日本を中国貿易の中継基地にするため開国を要求、4隻の蒸気船を江戸湾に送りこんで徳川幕府を脅します。これが1853年のペリー来航(クリミア戦争と同年だよ)。徳川はアヘン戦争(1840)の結果を知っていたので、戦わずして屈服し、不平等条約の日米修好通商条約を押しつけられ、ほかの西欧諸国にも不平等条約を認めます。欧米の工業製品が流れ込み、経済は大混乱。こうなったのは、欧米に屈した軟弱な徳川が悪い、というわけで倒幕運動に発展。各地で外国人や幕府要人に対するテロが発生。徳川は京都の天皇に権力を返すこと(大政奉還)を宣言して攻撃をかわそうとしますが、逆に薩長同盟は天皇に「王政復古の大号令」を出させ、天皇をかついで江戸へ進軍し、江戸城の無血開城で幕府は崩壊(1868)。
新政府は15歳の明治天皇を国家元首とし、江戸を東京と改め、士農工商の封建的身分制度を廃止して「日本国民」意識を作り上げ、欧米に対抗するための近代化に乗り出します。そのスピードは欧米人が目を見張ったほどのもので、世界史の奇跡といっても言い過ぎではありません。陸軍はドイツ、海軍はイギリス、憲法はドイツ、民法はフランスに学び、要するに西欧文明のいいとこ取りをして、約20年で近代化は完了します。日本が欧米国際法に基づく主権国家の一員になったことは、冊封関係を続ける周辺アジア諸国に衝撃を与えました。
◎主権国家って何ですか。
外国の支配を受けない、完全な独立国という意味です。ヨーロッパでは、ウェストファリア条約(1648)で神聖ローマ帝国が解体したあと、各国は、国の大小を問わず、まったく対等な主権国家である、という考えが生まれていたのです。
明治政府は、政権交代を周辺諸国にも通知しました。まず清朝に対して、日本天皇と中国皇帝の対等を条件に国交樹立を求めます。清朝からみれば"無礼者"ですが、当時の清朝(同治帝・摂政西太后)はアロー戦争に負けた直後。日本を敵に回さないほうがいいという李鴻章の意見により、日清修好条規(じょうき=条約と同じ意味)で対等外交を認めます。ところが、清朝と朝鮮の関係は従来どおりなので、朝鮮国王は日本天皇より一段下ということになる。朝鮮はこれがおもしろくない。朝鮮は原理原則に縛られる朱子学の国です。日本の国書の"天皇"という文字を見て、倭王ごときが"皇"とは無礼なり、と国書の受け取りを拒否、日朝関係がこじれます。日本はこのごたごたを利用して、朝鮮を近代化しようと考えます。
一般に、植民地獲得の目的は�/>
一方、清と朝鮮は2人の"女帝"(西太后と閔妃)専制のもとで改革はほとんど進まず、朝鮮では閔妃政権の腐敗と経済危機に怒った農民が、新興宗教の東学に率いられて甲午農民戦争を起こすと、閔妃はまたもや清朝に援軍を要請(これが3度目)。日本は"居留民保護"を口実に朝鮮に出兵し、首都・漢城を占領。高宗に強要して、清朝からの独立と清朝軍隊の撤退を宣言させます。清軍が撤退を拒否すると、日本は高宗からの要請という形にして"朝鮮独立を支援するため"清軍を攻撃、ここに日清戦争(1894)が勃発します。
◎なるほど。朝鮮の奪い合いだったんですね。
清朝は大敗、日本は下関条約第1条で「朝鮮の独立」を清朝に認めさせます(朝鮮は国名を大韓帝国と改め、高宗は「皇帝」となる)。追い詰められる閔妃。そこに救いの手を指しのばしたのがロシアのニコライ2世です。ロシアが三国干渉で日本の勢力拡大をストップしてくれたので、閔妃は親清派から親露派に一変し、ロシアの南下政策に協力するようになります。日本公使・三浦梧楼の意を受けた日本の軍人と警察官、開化派の兵士が、早朝の宮中に侵入し、閔妃を殺害、遺体を焼却しました(閔妃事件)。国際非難をあびた日本政府は三浦らを裁判にかけますが、証拠不十分で無罪閔妃は� ��かに朝鮮近代化の最大の障害でした。しかし、閔妃をどうするかは朝鮮人が決めることで、日本人が介入すべきことではありません。やりすぎです。
閔妃を殺された高宗はソウルのロシア公使館に亡命し、ロシアの力を背景に日本に対抗しますが、日露戦争(1904)で今度はロシアが敗北します。日本は韓国保護権を要求し、ポーツマス条約(1905)でロシアに、同年の第2次日韓協約で韓国(開化派政権)にこれを認めさせます。日清戦争時に日本の首相だった伊藤博文が韓国統監として着任し、韓国の外交権を奪います。高宗はひそかにハーグ万国平和会議に密使を派遣し、日本の侵略を訴えますが(ハーグ密使事件)、イギリスはインドで、フランスはヴェトナムで、アメリカはフィリピンで、日本と同じようなことをやっているわけで、韓国の訴えに耳を貸す国はなく、密使の一人は抗議の自殺をします。伊藤統監は、密使派遣を第2次日韓協約違反であると高宗を責め、高宗は退位。幼少の純宗に後をつがせます。第3次日韓協約では韓国統監が内 政権も握り、韓国軍隊を解散。多くの兵士が解散を拒否して反日ゲリラとなって抵抗し(義兵闘争)、義兵の一人安重根は、日露交渉のため満州を訪問した伊藤博文をハルビン駅で暗殺します。
実は伊藤博文は、軍部が主張する韓国併合には反対でした。ですから伊藤の暗殺は、逆に併合への動きを加速させます。日韓併合条約(1910)で日本は純宗を退位させ、朝鮮政府を廃止します。ここに 600年続いた李氏朝鮮は滅亡し、日本は新たに朝鮮総督府をおき、日本の軍人が総督となって36年間、朝鮮を支配します。初代総督は寺内正毅まさたけ陸軍大将。(殺された伊藤博文は韓国統監です。朝鮮総督ではないので注意!)
第一次大戦後の1919年、パリ講和会議で、米大統領ウィルソンの"民族自決"が認められるのではないかという期待が朝鮮でも高まりました。引退した高宗はパリへの密使の派遣を画策します。そんな矢先に、高宗が謎の急死。日本による毒殺との噂(真相は不明)が流れる中、高宗の葬儀が3月1日に行われ、集まった市民が"朝鮮独立万歳"を叫んで反日デモを起こします(三・一運動)。デモは日本軍によって弾圧されます。
これ以後、総督府は民族運動を抑えるため、武断政治から文化政治に転じ、朝鮮人の官吏登用など融和政策を進める一方、鉄道建設、電気の普及などインフラ整備を進めます。日中戦争がはじまった1930年代には、朝鮮人の日本人化政策(皇民化政策)を推進し、日本語教育、日本式戸籍の普及(創氏改名)、神社参拝などを行いましたが、結局、朝鮮人を日本人にする試みは成功しませんでした。この間、独立運動は国外で引き継がれ、満州国境ではソ連軍の訓練を受けた金日成(キム=イルソン)らの朝鮮人ゲリラが出没。一方、李承晩(イ=スンマン)ら在米韓国人の間には大韓民国樹立をめざす運動が起こります。第二次世界大戦の敗北で日本軍が撤退すると、北からソ連軍、南から米軍が進駐し、北緯38度線で朝鮮半島は分断。米ソ冷戦のなかで、ソ連は朝鮮民主主義人民共和国、米国は大韓民国を樹立させ、2つの政府がにらみ合うことになります。
(021021 更新)
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