2012年4月8日日曜日

インド日記


ホテルからすぐの十字路の角にあるチャイ屋を、私とマキは気に入っていた。ガートからの帰り道、立ち寄ることにした。

 店員はひとり。おじいちゃん、お父さん、お兄ちゃんの三人が交代で店を切り盛りしている。今日はお兄ちゃんだ。チャイをひとつづつ注文する。椅子とも言えない木の箱に腰掛けて、首にかけてあるタオルで汗を拭った。お兄ちゃんは客とよくおしゃべりをする。おじいちゃんもお父さんもあまりしゃべらない。

 客はさまざまで、リキシャの運転手らしき筋肉の引き締まった青年や、シャツを着て英語の新聞を読んでいる紳士もいる。女性や観光客はいない。私たちはよそ者だ。お兄ちゃんは他の客には気さくな態度なのに、私たちにはいつもむっつりとした顔でチャイを手渡す。そのたびに私たちは肩を竦めて見せて、笑いかけた。どうしてだか、このお兄ちゃんをすごく気に入ったのだ。機敏な動きがいい。注文をいくつも同時に聞いて、さっとミルクを温める。ガスコンロに火をかけて、コップでミルクの量を計って鍋の中に入れる。缶の中から手の感覚で紅茶の葉を掴んでミルクの中に散らす。煮だったら、たっぷりの砂糖を落とした。チャイを作る間に、客からお金を受け取ったり、グラスを洗ったり忙しい。てきぱき� ��働くが、おじいちゃんやお父さんの洗礼された身のこなしにはまだかなわない。無駄な動きがあるようには見えないのだが、お兄ちゃんの真面目な働きぶりにはつい見惚れてしまう。

 今日も硬い顔でチャイを手渡される。その次にクッキーが出てきた。私とマキは笑いかけるのも忘れて顔を見合わせた。

「チャイしか注文してないよね。これ、なんだろう。まさか、モーニングサービスなんて、あるわけないか」

 私はマキに問いかける。

「まさか、ぼったくろうとしてるのかな」

 マキも曇った顔で言う。時々、頼んでもいないのに無理やりチャイのお代わりをグラスに注いできたり、パンを売りつけようとするチャイ屋があるのだ。でも、まさか、と私も思った。ぼったくろうとしているのだろうか、と思い浮かび、このお兄ちゃんに限ってそんなことはしないと感じたのである。

 お兄ちゃんは客の勘定を受け取っている。私たちが戸惑っていると近くの客がノーチャージだと教えてくれた。その客は店で時々会う顔見知りだった。驚いてお兄ちゃんを見ると、私たちと目が合った。白い歯を見せて、お兄ちゃんは笑った。はじめて私たちに笑いかけてくれた。マキも私もうれしくなって、甲高い声をあげてありがとうを言った。仲間と認めれらた気がして嬉しい。

 次の日の朝、寝坊はしなかった。昨日と同じ場所に到着。朝日はまだ出ていない。ヒロさんや、昨日知り合った人たちに挨拶をして日が昇るのを待つ。


私はワインをインポートするlincenseが必要です

 神々しさを期待していた。ガンガーから昇る太陽の光の強さを私は感じたかった。光から目をそらさずにいた。祈ろうと思っても、私には神はいない。光が、空の青にとけていく。私には水平線から日が昇る美しさ以上のことは感じられなかった。

 身につけていた貴重品をヒロさんに預けてガートを降りた。ついに沐浴を体験するのである。足の裏にぬめっとした感覚がある。気持ちが悪かったが耐えられないほどではない。腰のあたりまで降りた頃には足の裏の感覚にもう慣れていた。思ったよりも冷たい。ゆっくりと入っていくが、インド人たちは慣れたもので、すいすいと水の中に体を浸している。日が昇ってしまうと不思議と人々の声が耳にとおる。人々の姿も。上半身裸の男性がすぐ隣で歯を磨いている。胸板の厚いいい体だ。

 私は思いきってガートを蹴った。一気に二段降りて、首まで浸かった。冷たさが駆け巡る。汚い水だ、とも思わなかった。神聖な水だとも思わなかった。昨日目にした死体が流れている河でも、この液体からは死者の匂いはしない。流されてみようと、頭まで浸かる。足のつかない深さまで泳いでみる。顔をあげると、子供たちの集団からきゃっきゃと、にぎやかな声が聞こえた。水泳教室が開かれていて、手の動かし方を習っていた。

 どれだけあがいても、この河に流れている神秘のエネルギーを受け取ることはできなかった。この国の人たちの真似をしても、同じ気持ちにはなれない。私は傍観者という立場から離れられなかったのだ。

 水は濁っていて、黄土色と緑色の中間くらい。足先に水草が時々触れた。触れるたびになにを踏んでしまったのだろうとぞっとした。子供がもぐって小魚を捕まえている。私に観察されていることに気付くと、得意げに小魚を見せつけ、私に投げてよこした。驚いて水の中に逃げ込む。

 気がすむまで水中散歩をして、ホテルに帰った。マキは昼まで眠っていた。昼食は、日本食が食べられるというレストランに行くことになった。ガイドブックには天丼や味噌汁が飲める本格派の店と紹介してある。まさかね、と私もマキも疑って、どんなものか冷やかし半分で食べてみようということになったのだ。店はガートを上がったすぐ上に広がる迷路のように細い道が続く地帯にある。ホテルを出るときに、フロントのおやじにどこへ行くのか聞かれた。このおやじはいちいちどこへ行くのか聞いてくる。そして、シルクの安い店があるから連れてってやるなどとうそ臭いことを言うのだ。

 ここに行く、そう言ってガイドブックの地図を見せた。おやじはわざとらしく驚いて見た。

get lost  get lost  get lost


弁護士は良い評判を持っている場合どのように見つけるか

 おやじは大袈裟に首を振って言う。おやじのしゃべり方はおもしろい。強調したいことを何度も繰り返して言うのだ。私のサンダルを誉めたとき、おやじはvery good good goodと言った。私ならvery  very  very  goodと言うだろう。とても良い良い良い。とてもとてもとても良い。ヒンディ語では告白するとき、すごく愛している愛しいてる愛していると打ち明けるのだろうか。

 地図は役に立たなかった。おやじの言うとおりすぐに迷った。道幅が狭いうえに、両脇に軒を連ねる建物が背が高いせいで、方向感覚がつかめない。落としたての牛の糞を踏んだばかりの私はもっぱら足元ばかりを気にして歩いていたのだが。すると、頬に冷たい水滴が落ちてきた。雨かと思って天を仰ぐ。サルが屋根の上からおしっこをしていた。ネタになることをしてくれるサルだと私は思った。

 レストランを見つけ出すのを半分あきらめかけてふらふらと歩いていると、後ろからドドドドと地響きがする。子供が鬼ごっこでもしているのだろうと気にせずに歩きつづけていると、突然後ろから突き飛ばされた。私はマキにぶつかって転んだ。小牛が一目散に駆けて行くのが目に入った。こんな狭い道に牛たちがなぜ駆け回っているのかわからなかったが、私の足は踏みつけられて血が滲んでいた。成り行きを見ていた近所の日用雑貨屋の少年が私たちを手招きしている。苦笑いをして私の足を濡れた紙で拭いてくれた。何度も言うが、インドの少年は私たちの好みのいい面をしている。私はでれでれとした微笑みを浮かべた。

 思いがけず、日本料理のレストランを発見。私は天丼、マキはオムライスを注文した。天丼は野菜の掻き揚げふうの油でべっとりとしたものが、ぱさぱさの米に乗っていて、香辛料のきいた汁がかかっていた。オムライスは不健康な鶏から生まれたような薄い卵がシナモン風味のご飯のうえに乗っていた。日本食とはかけ離れていた。インドで食べたもっともおいしくない食べ物であった。

 夕方まで河のほとりをふらふらした。人気がほとんどない。朝の賑わいとは大違いだ。私たちはガートに布を敷いて横になってぼーっと河を見ていた。河のほとりに引き寄せられるようにそこへ腰を据えたのだが、無口な河はなにも言わない。

「そんなところで眠っていたら危険だ。つかれたのならホテルに帰りなさい」

 通りかかったインド人のおじさんが私たちに注意をしてくれた。混濁している。優しいインド人は私たちが立ちあがったのを見届けると去っていった。どうやって、人と接すればいいのだろう。本当に優しい人と、私たちからお金を巻き上げようとする人と、どう見極めればいいのか。心を硬くしてはいけない。


いくらliberety重量の像

 ガートに腰掛けていると、今度は子供たちが寄って来た。お金頂戴。三人の子供たちは手を差し出す。お金なんて持っていないと答えると、うそつきと言われた。あなたたちにあげるお金はないと言いなおす。すると、チョコレート頂戴と言う。これは本当に持っていなかった。三人きょうだいなのだろうか、一番年上の女の子は十歳くらい。二番目の女の子は六歳くらい。末っ子は四歳くらいの男の子。

 長女はこびるように私のTシャツを誉めた。意地悪な気持ちが刺激される。あなたはかわいらしいわねと、長女に言う。長女はむっとした。早くお金を出して。長女は私のシャツを引っ張る。この子が稼がないと、家族が食べていけないのかもしれない。あなたの長い髪、素敵ね。大人の女性のように髪を束ねないからかわいい。私は言った。長女は私の頬をつねった。子供扱いされるのがプライドを傷つけたのだろう。私はガールじゃない。レディよ。長女は言う。私はこっちの頬もつねりなさいと、顔を差し出した。長女は両頬をつねった。あなたはガールだ。私は言う。両頬に痛みが増す。

 早く一人前になりたいと思うのだろうか。長女はすでに自分も稼がないと生きていけないことを自覚しているのだろうか。

「行きなさい。早くここから出て行きなさい」

 長女は命令形で言った。先にこの場所に座っていたのは私たちよ。私はむきになって言い返す。

「ここは私たちが暮らしているガートよ。すぐそこには私の家があってママが待っているのよ」

 長女は言った。その通りだ。ふっと、嬉しいようなほっとしたような気持ちが込み上げた。この子には家があって家族がある。当然の権利のようにそれを言った。私は黙ってたちあがった。ふと見ると、マキは妹と弟と手を繋いで輪になって遊んでいた。

「インド人の子供ってほんとにかわいいね」

 マキは楽しそうに子供たちと笑い合いながら言う。私も長女も突っ立って三人が仲良く遊んでいるのを眺めた。

 次の日もガートへ日の出を見に行った。沐浴をしてチャイ屋のお兄ちゃんに会いに行く。日がだいぶ昇って、客はいない。お兄ちゃんは私たちにチャイを出した後、紅茶の葉を補充したり鍋を洗ったりしていた。私たちはいつものごとく、ただぼんやりと椅子に座って眺めている。

 暑い。店といっても軒先にガスコンロを置いて椅子を出してあるだけのものだ。太陽が直接あたって、肌を焼く。私とマキは一本のタオルを頭の上に置いて小さな日陰をつくってしのいでいた。

 小さな小さな少女が向かいの雑貨屋から出てきた。手には少女の体の半分ほどもある大きな鍋を抱えている。チャイ屋のお兄ちゃんから鍋にミルクを注いでもらった。お使いに来たのだろう。少女は重そうにミルクを抱えて帰った。


 お兄ちゃんが背伸びをして、柱にビニールシートを括り付けている。なにをしているのだろうと、私とマキは観察した。私たちに日陰が与えられた。お兄ちゃんが屋根を作ってくれたのだ。ありがとう! 私たちが言うと、お兄ちゃんは照れたように笑った。

 この国の人たちのことを知りたい。私はそんなふうに思って旅をしていた。非常に困難なことだった。ガンガーという流れに、彼らがどんな思想を持っているのか、私にはつかめない。

 笑顔を言葉に置きかえる、そこから一歩踏み込んでみる。この町で私にできたのはそこまでだ。それは日本で感じている日常の喜怒哀楽に近いものだった。食べて眠って、隣人と関わりあいながら生活するうえで、きっと基本は変わらないのだろう。守りたいものがあり、いたわりの心がある。

 彼らにとって、神もそんな存在なのだろうか。さまざまな宗教があり、さまざまな神がいた。例えばガネーシャという神。シヴァ神の息子で、ある日シヴァの怒りにふれて、首をはねられてしまう。シヴァは妻に恨まれて、最初に通りかかった象の頭をつけてガネーシャを生きかえらせた。

 ヒンズー教の神々は個性が強く、喜怒哀楽も激しい。ヒンズー教の人々は神に笑いかけたり、ときには気遣いをしたり、腹を立てたりするのだろうか。そうであるとしたら、彼らがガンガーで毎朝祈るのは、今日も無事ここに来ることができたという、感謝の気持ちなのだろうか。彼らの中に、苦悩を私はまだ見つけることができない。

 チャイ屋を出ると、今日の夕食は近所の屋台でカレーを食べようねと、マキは言った。停電しても、あそこならガスコンロの火がついてるから。マキは頭にタオルを巻いて歩いている。

「まだ、帰りたくないな」

 マキはつぶやいた。マキは明日にはこの町を出て、一晩かけてデリーへ向かい、そこから日本へ飛び立つのだ。私はデリーまでマキを送り届けて、そこからひとりで南の町へ行くつもりだ。

「お土産はデリーで買おう」

 マキはふっと息を吐くと、まぶしそうに空を仰いだ。



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