2012年4月15日日曜日

ハリケーン



人民動員によるキューバの防災力


 カリブ海や中米の諸国では、自然災害による深刻な犠牲を強いられているが、キューバはこのルールからはずれている。物質的に欠乏しているにもかかわらず、市民は情報をよく周知され、ハリケーン、土砂崩れ、地震他の自然災害でもわずかな死傷者しかでないのだ。国際赤十字赤新月社連盟は「キューバと中米やカリブ海の隣国との災害の犠牲の規模の大きなコントラストは際立っている」と述べている(IFRC, 2002, p. 1)。
資源が限られる中、キューバはどのようにして、これだけのことができているのだろうか。国民の動員や災害マネジメントシステムに多くの資金を投じるべきではあるまいか。この論文では、災害援助、情報の周知、そして、ハリケーンに備えるうえで、キューバの政府機関の構造の果たす役割を調べる。また、公表されている情報の他、2002年2月にハバナ市とマタンサス州で行ったインタビューも用いる。なお、マタンサス州は、2001年11月前半に、ハリケーン・ミッチの襲来で深刻な被害を受けた。それは、1944年以来の最も強力なハリケーンだった。

 キューバが自然災害の中で人命救済に成功しているのは、人命の価値を最重視する「市民防衛」、気象学者、そして、行政担当者の恊働の努力の賜物である(Cawthorne, 2001; IFRC, p. 1)。

 ホセ・ルビエラは、国連の世界気象機関のハリケーン委員会の副委員長で、キューバ気象研究所の全国予想センターの代表だが、キューバの予報システムとハリケーンに対して備えるうえで、市民防衛と公的支援が自然災害による犠牲を少なくしていると述べる。

「激しいハリケーンが迫り、時がすぎてその可能性が論理的に高まれば、私たちはダメージを最小限度に抑えるための用意をするのです。そして、私たちは、ただ一人のキューバ人の命も落とさないことを確実にしようと試みています」(Inter Press Service, 2001)

 キューバがハリケーン・ミッチに直面したとき、フィデル・カストロはこう強調した。

「いかにダメージ大きくとも、我々はこの問題を克服するつもりだ。我々にとって勝利とは、人命の損失が最小であることを意味する」(Bauza and Cazares, 2001)


 キューバ社会主義政権は、インセンティブを削ぐものを産み出してはいるとはいえ、国の資源を保護するうえで、その防災制度には強力なものが多くある。気象研究所は、ハリケーンの経路をトレースし、身に降りかかる危険を政府に知らせる。政府は市民防衛と赤十字と良好にコミュニケーションし、避難プランを実施する。災害マネジンメントは、法律や強力な国家指導部によりファシリテートされ、政府は復旧や再建を支援する。

 気象研究所は、科学技術環境省の機関で、天候、ハリケーン、海の状態をモニタリング•予測し、暴風雨警報は、危険な状態を知らせる助けとなっている。ただし、その機関の資金は限られ、レーダーや衛星を含め、施設も古いため、差し迫る嵐にときにはゆっくりと予測は、険悪な天気� ��行き当たりばったりに反応する。情報は全国予報センターから提供され、早期警戒システムがテレビとラジオで放送される。危険性と同様にハリケーンの経路や強度も説明されるのである(Rubiera, 2000)。

 ハリケーンは国境を知らず外交関係にも気を使わないため、ハリケーンは、ちょうど90マイルほど離れて位置する冷ややかな隣人、米国とキューバのいずれもを脅かす。情報交換によって、ハリケーンへの準備機能は強化できる。マイアミにある米国の国立ハリケーン・センターとハバナにある気象センターの気象学者は長年情報交換をしている。商務省はキューバに対して経済封鎖を実施しているが、米国商務省が運営するP-3 ハリケーン・ハンター機(A P-3 Hurricane Hunter plane)も定期的にキューバの領空へ飛び、嵐の情報をリレーしている(CNN, Worldview 1999)。

 キューバ政府は、4フェーズの防災プログラムを持つ。まず、ハリケーンが到着する2日前に、周知フェーズ(informative phase)が実施される。ラジオやテレビを通じて、人民はハリケーンの襲来予想を告げられる。二番目の警戒フェーズ(alert phase)はその1日後に実施され、ハリケーンが直撃することから可能な避難準備をするよう市民に警告する。 数時間後に、ハリケーンが直撃すれば、三番目の警告フェーズ(alarm phase)が、人民に周知するために呼びかけられる。そして、四番目のフェーズが直ちに実施される。バス、タクシー、農業用トラックを含め、国の全車両が、高台へと人民を連れて行くために準備される。これはキューバのかなりの功績である。自動車部品と燃料は不十分で農村の道路がしばしば条件が悪いとはいえ、国家が所有する車両は容易にアクセスしやすい(Snow, 1998)。


砂利はどのようにされて

 政府の介入と人民の参加が、キューバの災害軽減と公衆衛生政策の決定的な要素である(Chomsky, 2000)。憲法では、天災時には、国が生命と資源を救うことを指示している(Concurso de Buenas Practicas, 1996)。災害の間に、保健省は、ヘルスケアを提供する責務があり、市民防衛のハリケーン・シミュレーション運動にも参加する。市民防衛は、1966年に災害や戦争から市民の安全と経済的な復旧を促進するため、防衛省の部局として設立された。州議会とムニシピオの議長は、全国各地の市民防衛の代表を務める。公共の安全は、赤十字との共同作業により、身に降りかかる危険への警告、インフラの保存、リスクのあるエリアからの避難、可能な化学的、放射性と生物学的な汚染のモニタリングにより達成されている(Ministerio de las Fuerzas Armadas Revolucionarias, 2001)。

 国の中央当局からの指令を含む文書化されたハリケーン・プランは、地域レベルでは革命防衛委員会(CDR)によって実施されている。それは、全国、州の指導者、ムニシピオの代表と多くの人々から調整されることになっている。市民防衛は、自然災害準備への人民の指示の有効性を測定するための研究を実施している(Juventud Rebelde, 2001)。

 教育省の官僚リサルド・ガルシア・ラニスは、防災における学校の重要な役割をこう指摘した。

「1年から4年生まで、生徒たちは自分たちの環境に慣れています。そして、4年か6年からはじまり、生徒たちは、ハリケーンに対してどのような準備をするのかを学びのです」

 学校では防災のビデオを見せ、ノン・フォーマル教育も市民の準備を確実にするうえで、社会の全要素に達するテレビを利用している。さらに、国営メディアは、気候変動等の環境問題を分析し、不注意な訪問者による海岸線の保護を推進することを助けている(ハバナ教育省のリサルド・ガルシア・ラミスとのマタンサスでのインタビュー、2002年2月15日)。

 市民は、コミュニティ、地区、そして、ブロックレベルで、市民防衛委員会� �対してサービスを行う。彼らは、適切な水、食料、毛布他を担保するため各避難所を訪ねる。市民防衛のワーカーたちは、彼らのブロックの責任を負い、全世帯の安全性をチェックする。民間防衛サービスは、ローカルレベルでは、コミュニティの監視グループ(watch group)として行動する革命防衛委員会のリーダーによって管理されている(Snow, 1998)。彼らは、正常な時には政治上のおせっかい屋と見なされるかもしれないが、多くの市民は危機の間での彼らの懸念に感謝している。

 とはいえ、1人の博識な観察者によれば、ローカルなリーダーは実際には緊急マネジメントをほとんどコントロールしていない。ほとんどの主な決定は、州と国レベルでなされている。革命防衛委員会や地元のリーダーの義務は明確にされていない。これが、国連の災害救済機関のガイドラインをキューバが順守していない領域のひとつとなっている(Lezcano, 1995, p. 402)。

 災害マネジメントについてのカストロの明白な懸念が、キューバでハリケーンの最小の犠牲者しかでないひとつのファクターである。ハリケーンに続き、被害を調べ、人民を奨励し、テレビ放送に出演する姿はよく見られる。カストロは個人的にハリケーン被災地のいくつかで避難や復旧を監督し、カストロの経済政策で辛い思いをしているある一人の男性でさえ、逆境の中での勇気とリーダーシップを賞賛し、彼の真価が広くわかちあわれたと述べた。彼は「カストロは、ミッチの荒廃の最も高いマタンサスの近くにある橋を訪れることで自ら危険を招いた」と言った。

「カストロはこう言うことで人々を奮い立たせました。『心配しないでいい。我々はもっと良い家を建てるつもりだ。避難所にいって欲しい。我々は� ��が過ぎ去るまで、あなたを快適に保つ、食料、毛布、そして、医療を持っている」(2002年2月13日のマタンサスでのインタビュー)

 ラテンアメリカの官僚的独裁政権の崩壊と東と中央ヨーロッパでの民主的政治制度の高まりで、軍服姿の世界の指導者の数は減っている(Randall and Theobald, 1998)。だが、カストロは「打ち負かすための敵としてハリケーンについて話す。ホルヘはある種の侵入に達する破壊力だった。

 ホルヘとミッチの経験が、政策当局と市民により取られたコミュニティケーション戦略と行動を強調すると簡潔に考えられている。

1998年、ハリケーン•ホルヘ襲来


■コミュニケーション

 ハリケーン・ホルヘの警報により、カストロは、その内閣に警告を発し、食料、医薬品他の物資をハリケーン被災者に供給するよう市民に再保証した。

『誰も見捨てられることはないだろう。ホルヘにより家を失った人民は建設資材が入手できよう』


キャンプでどのように多くの人々

 キューバ人たちは、国営のラジオレポートをモニターするよう奨励され、カストロはハリケーンに対抗するローカル政府の戦略を信頼するよう述べた。また、カストロは、ハリケーンで被災した他国に医師や医療品を送ると申し出た。カストロは、彼の隣人(米国のこと)の高い乳児死亡率にふれたスピーチで、「ハリケーンは酷い人間への被害を引き起こす」と指摘した。カストロは彼の医学外交を説明し、こう言う。

「もし、これほど限られた資材と経済的資源しかない国が何かをできるならば、工業化された世界は無限にそれ以上のことができるだろう」

 カストロは、人道主義でのミッションでハリケーンで荒廃した他国にキューバの医師を送る プログラムについて言及した。ハリケーン・ホルヘとミッチの後、900人のキューバの医師からなる45の医学ブリガーダが、ハリケーンで荒廃した13カ国で病人や負傷者を助けた(Garcia Gomez, 2000)。カストロのプランは、ラテンアメリカやヨーロッパ諸国から何らかの資金援助を受けたが、米国は資金を出さなかった。カストロは、もし、米国が防衛に費やす1250ドルのうちたった1ドルを寄付するだけで5万人の命が救えるだろうと述べた(Rice, 1998)。

 ハリケーン・ホルヘが通過した後、カストロは、ハリケーンと戦う「革命の規律」を示したキューバ人たちを祝福し(Rohter, 1998, p. 6)、数多くの人命を救った市民防衛システムを称賛した。ハリケーンにより、ハイチとドミニカ共和国を含めヒスパニオラ島では300人が死んだとの比べ、キューバでは5人が命を落としただけだった。

■取られた行動

 キューバ東部では市民防衛のワーカーたちは、1万台の車両しかないにもかかわらず、交通事故も起こすこともなく、洪水地域から記録を更新する81万8000人と75万頭の家畜を72時間で避難させた。ラウル・カストロ副大統領兼防衛大臣がこの避難を監督した。革命軍はヘリコプターと水陸両用車両を用い、人々を高台へと搬送した。ボランティアたちは、農民がコーヒーを収穫するのを助け、低地から牛他の家畜27万4000頭を避難させることを頼まれた。

 時には、モノが盗まれることから家を空けることを� ��れることもある。グアンタナモの週刊新聞、ベンセレーモス(Venceremos)に印刷されたある女性のケースはそのようなものだった。エネイダさんは、警察官が、罰金を科すと脅かすまで彼女の家を出て高台へと移ることを拒否した。翌朝、彼女の家は水没していた。もし、彼女が去らなければ、洪水で死んだであろう。彼女の話は珍しいものだ。若い頃からキューバ人たちは、天災や軍事衝突の場合、すぐに動員することが教えられているからだ。それは、訓戒的な物語として印刷されたのかもしれない。ハリケーン・ミッチの経験をインタビューされたある一人の若い男性は、市民防衛のワーカーたちが、彼の隣人たちに大西洋の近くの家から避難するよう強くアドバイスしたが、全員がそう強いられたわけではなかった述べた。あるもの� �残り生き残りました、と彼は述べた(2002年2月15日のマタンサスのイビス・ユニオル・バルギン・ドミンゲスとのインタビュー)。

 グアンタナモ沿岸の都市もハリケーンが襲来するが、そこには、米国の海軍基地の形で冷戦の遺産があり、アフガニスタンの囚人が収容されている。米国との引き続く緊張感が、米国による軍事侵略の恐怖心をかきたて、防衛委員会が、自然や好戦的な隣人からの攻撃への準備をすることにつながった。教育省の国際協力アドバイザー、ホルヘ・ゴンサレス・コロナは「戦争状態の中で生きているので、我々は、防衛のためにある種の実践を開発する必要があったのです」と語る。

「1960年代のハリケーン・フロラによる被害も高レベルの組織化が社会に必要なことを私たちに教えました。あらゆるキューバ人、子ども、成人、高齢者は自ら守らなければなりません。防衛は軍だけのものではありません。全市民に役割があるの� ��す」(2002年2月16日のマタンサスでのインタビュー)。

「すべての指示は書かれています。また、私たちには、ハリケーンがあるなしにかかわらず毎年トレーニングプログラムがあります。人民は大規模組織、組合、専門職の協会を通して動員されます。高齢者と子どもたちのためには、特殊な部隊がいます。私たちは洪水の危険性のあるエリアを研究し、避難する必要のある場所を知っています。私たちは食料、医薬品、医師、看護師を確保します。要するに、国全体が警戒体制に入ります。そして、その目標は人命を救うことなのです」(2002年2月16日のマタンサスでのインタビュー)


彼らはアメリカで何をしたか

 効率的な組織構造によって、グアンタナモ州では4万7000人が人命の損傷なく避難した(Snow, 1998)。だが、ハリケーンで命を落としたのは6人だけだったが、作物は荒廃した。ハリケーン・ホルヘの大雨の後、エルニーニョによる旱魃が長く続いた。カボチャ、キュウリ、サラダ菜等の収穫期の短い作物は再び播種する必要があった(Snow, 1998)。

 キューバ14州のうち5州では約42%の作物が被害を受けた。キューバは1959年の革命以来の最悪い収穫のひとつの1年を終えた。地元共産党によって組織された労働者たちは、痛んだ食用バナナ、キャッサバ、山芋、タピオカを救おうとしたが、コーヒーかサトウキビ作物の多くを救うことは困難だった(Snow, 1998)。
400万人に提供するため、東キューバへの配給は増やされ、旱魃で傷ついた人々のための米、エンドウマメ、パン、料理用油に加え、14歳未満と60歳以上には、1カ月あたり余分なマメの特別な配給がなされた。政府は、子どもには約2リットル/日以上のミルク、7歳以下の子どもには粉乳を提供した。世界食料プログラムによる200~300万ドル/年の寄付に加え、キューバは旱魃で影響を受けた人々のため、米、豆、缶詰の魚を購入するため2050万ドルを要めた(Snow, 1998)。国際組織からの助けで、キューバは、その人民、とりわけ、子どもと高齢者を養った。

2001年、ハリケーン•ミッチ襲来


 ハリケーン・ミッチは、キューバに到達する前に、ジャマイカ、ホンジュラス、ニカラグアに大被害をもたらし、12人が命を落とし、26人が行方不明となり、数千人が家屋を失い、約11万5000人が避難を強いられた。

 キューバでは、市民防衛のワーカーと2万4500人のキューバ赤十字のボランティアたちが、低地に住む約75万人を避難させた。それは、キューバ史上最大の避難だった。政府の報告によれば、この避難を支援したのは、約7万人のキューバ人と5000台の車両だけだった。天候が悪化する前に、バスは人々を避難所に搬送し、嵐が猛威をふるいはじめると、軍の戦車が、人々を安全な場所へと運んだ(Bauza, 2001)。74万1000頭以上の家畜が高台へと導かれ、5万2000人の学生たちは作物を収穫していた「教育キャンプ」から自宅に戻された。

 何百人もの観光客や観光業の労働者たちもマタンサス州北部のリゾート地、バラデロから避難した。人々は、窓にテープを貼り、家屋の穴を板でふさぎ、屋根の水槽を縛るようアドバイスされた。住民たちは、長蛇の列を作って、腐りにくい食品や物資を待って手に入れた。釣りをする人々は、より高い町の広場に船を移動させることで、その安全を確保した。自分達の住宅に残った人は、石油ランプ、石炭、バッテリー、蝋燭、水と1週間分の十分な米や豆の調理材料を収納した。マタンサス州にあるホテルのマネージャ、シルビオ・ロドリゲス氏はこう語る。

「ハリケーンの襲来は信じられないほ ど強いものでした。マタンサスはハリケーンの中心からは遠かったのですが、風速は毎時の120キロと同じほど早いと感じました。州の南部や市の中心部では、風は毎時200キロに達しました。明かりは消え、水も一週間断水しました。電気も最初の風で切られました。すべての電線が切れて下がり、子どもたちは泣き叫んでいました。祈りを捧げ、世界に終わりが来たと思った人もいました。私たちは12時間ホラー映画の中を生き続けました。嵐は1時間で過ぎ去りましたが、風や雨はずっと長く続き、コミュニケーションも全くありませんでした。私の家には小さなラジオがあり、州の放送を聞くことはできましたが、バッテリーは3時間で減ってしまい、かすかな音しか聞けませんでした。そして、私はやっとハリケーンがキューバを出たと 聞きました。それでも、風はとても強く、大きな物があちらこちらで飛んでいるのを目にしました。窓を開けると、私たちは、大破壊を目にしました。樹齢200歳の巨木は根こそぎにされていました。電話は切れていました(2002年2月15日のマタンサスでのインタビュー)。

 マタンサス州では農業も大打撃を受け、9万9000トンの柑橘類が破壊され、タバコの播種床は風によって掃き捨てられた。食用バナナとバナナは、主要食料でいずれも人気がある作物だが、木から振り落とされていた。傷んだ果物の多くは、ジュースにされ、ハリケーン犠牲者に分配された。近年、穀物は機械で収穫されているが、燃料の有用性が条件で、2001年の収穫のほとんどは手でなされた。ハリケーン後の食料不足にもかかわらず、ロドリゲス氏は、「私たちは 手にしていたすべてをわかちあいました。共有しました。'多くはありませんでしたが、私たちには、集合的な食事をしました。人民は即座にお互いを助け始めました」と想起する(マタンサスでのインタビュー)。


 ハリケーン・ミッチでは、カリブ海全体では17人が命を落とした。ハバナは避けたが、キューバ中央部を抜け、5人が命を落とした。50cmの降雨と強風で建物が崩壊し4人が死に、5人目は大波で死んだ。国営テレビは、23もの建物が破壊され、乾燥すればさらにぼろぼろに崩れると警告した。マタンサス州で1万戸が影響を受け、うち、2000戸が破壊された。マタンサスのホテルの従業員は、海の近くで自宅を失った一人だった。市民防衛は避難を奨励し、もし、住宅がひどく破損したならば、避難所での宿泊を担保した。イビス・ユニオル・バルギン・ドミンゲス氏は言う。

「そこに住み続けるのは、不可能でした。私は台所と洗面所をなくしました」

 氏は、政府が約720メーター四方� ��区画と二階建ての住宅用の資材を提供したことに満足した。それは、15年の分割払いで返済するのである。新たなレンガ造りの住居はより丈夫で、ハリケーン・ミシェルで被災した以前のスペイン風のタイルの代わりにコンクリートの屋根だったのである(2002年2月15日のマタンサスでのインタビュー)。

 キューバのインフラは、ハリケーン・ミッチで大きく傷つけられた。浸水した道路や弱められた橋は、遠隔地を孤立させ、人々は足留めされた。100万羽の鶏を含め、家畜の数千が殺されたか、傷ついた。  マタンサス州は砂糖収穫の20%を生産しており、20の精糖工場があるが、うち9がひどくダメージを受けた。大いく影響を受けなかった唯一の産業は、石油と観光だった。マタンサスはキューバの石油の50%を生産しており、そのリゾートはキューバ経済にかなりの収益をもたらしている(Losada, 2001)。ハリケーンは来たとき、2つの主要な輸出品、ニッケルと砂糖の世界価格は非常に低かった。2001年11月のニッケルは、2000年5月の価格の半分だった。観光も米国同時多発テロ後に落ち込んでいた(Johnson, 2001)。


 ハリケーン・ミッチの荒廃で、キューバと米国間の商業活動は空前の突風をかきたてられた。ハリケーン・ミッチの後、米国は直ちに災害救助をキューバ側に打診したが、その申し出は断われた。キューバの指導者は、40年にわたる経済封鎖の一部である貿易制裁の緩和を米国に求めた。キューバが潜在的な市場であることから、両国間の経済封鎖の緩和を好む者もいたが、米国側はこの考えを却下する。その後、購買がある種の許可要件を確実に満たし、米国政府か米国金融機関から融資されない限りは、米国の食料と農産物のキューバへの販売を2000年に議会は認める。だが、商務省が2000年7月に認可規則を設けた後も販売は全く行われず、キューバは米国の官僚的な形式主義を非難した。2001年11月、上院農業委員会は、キューバ に対する米国の冷戦時代の政策の継続を認めつつ、米国からキューバへの食物販売の民間金融を認可することに同意した(Johnson, 2001)。


 ある一人の教育省の職員は、米国がキューバの賞賛される災害動員システムを奮い立たせていると皮肉を込めて米国に感謝した。だが、残念ながら、災害の脅威は、この領域の将来に影を投げかけている。キューバには、優れた予報と市民防衛システム、ラジオやテレビ等の通信技術、そして、ハリケーンの危機に対処する政府のサポートがある。にもかかわらず、気候変動で加速化される病気の蔓延を含め、ハリケーンの多くの影響の準備ができていない(Garrett, 2000)。

 ハリケーンに対処するキューバの経験は、経済力や民主的な政治システムが、災害の犠牲を加減する主因でないことを示唆する。キューバは、ハリケーンに対して人民を準備させるため、人民の動員と教育のシステムを効果的に導入しており、避難命令への追従には印象的なものがある。政府の役人は、科学技術を広く普及しており、市民による積極的な参加は、ますます一般的となっている災害の中で人命を救うことができている。国際赤十字赤新月社連盟は、防災への投資拡大の必要性を強調している(IFRC, 2002)。

 海の近くでミシェルにより家を失った一人の男性は、もうひとつのアドバイスを持っていた。 「自然はますます乱用され、人間はそれを無視しています。キューバがミッチのような嵐を経験したのは50年以来のことです。自然は劣化しています。産業国はそのケアをするべきです」(2002年2月15日、マタンサスでのイビス・ユニオル・バルギン・ドミンゲスとのインタビュー)。



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